20110101

正月の昼、急に諏訪哲史のことを思い出し
久しぶりにアサッテの人が読みたくなった。
ネットで調べると、もう文庫が出ているらしい。
同時にまだ読んだことのない新刊を
出しているということを知った。


なにかひとつでも見つかればと
自転車で、書店に向かった。
長野は田舎だが、書店は広い。
必ず見つかるものと、疑っていなかった。


結論を言うと、長い時間探したのだが
諏訪哲司は見つからなかった。
芥川賞受賞作家なのに
ただの一冊も見つからなかった。


入口の付近にはKAGEROU
特設コーナーが出来ていた。
大量の本でタワーが形作られ
水嶋ヒロが表紙のSWITCHが
その周囲に、花を添えていた。


息苦しさを感じた。


ひとつは長野という環境に対して。
書店のラインナップは編集されている。
それは何処に行こうとも同じことなのだが
あまりにも上澄みだけだった。
これが世界の全てだと信じてしまうとするならば
なんと貧しい人生だろうと思ったのだ。


本のコーナーのほとんどは
ファッション雑誌と、趣味の本であった。
自己啓発本と小説が、同程度置かれていて
そこを大きく取り囲むように、漫画が置かれている。
さらに、その外側にあるのは
レンタルビデオである。
よく見ると、さらにその外側には
レンタルの漫画が置かれていた。


もうひとつ感じた息苦しさがあった。
それは、文章という世界に対するものだ。


たとえ素敵な文章を書いて
それが、出版されたとしても
世界を変えることはないのだと実感した。


何かを伝えようと深く考察し
その上にものを作ると
難解にならざるを得ない。


(そして、ゲームにだって、たぶん同じことが言える)


人々は単純なものを求める。
一言で伝わるメッセージだ。


複雑をもとめる人間ですら
複雑を示す単純なメッセージを求める。


だから、表現に未来などはない。
そのことを、なんとなく直感的に
感じ取ってしまった。
新年から、切ない気持ちになった。


と、ここまでがひとつ目の話。

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本屋を探して
自転車でさまよっている最中
ひとつのポストを見た。


それはさして記憶に残るような
エピソードのあるポストではなかったが
通っていた中学校の校門前にあったので
毎日目にしていたものだった。


そこから多くの記憶が
呼び覚まされた。


日々、通っていた道だから
たとえばちょっとした崖だとか
塀のような細かい風景から
思い出されることが、たくさんあったのだ。


たとえば、あるひとつのエピソードが
頭をよぎった。


女の子に傘を貸して
自分はびしょ濡れで帰った日のこと。


トタンの屋根から落ちる雨だれに
手で触れたことを
まざまざと思い出したのだった。


その感触を
思い出したのだった。


俺は雨を、ここで知ったのだ。
そう思うと、少し複雑な気持ちになった。