アイドルロジック-2

 高校生の頃の水野が、相原との関係を思い悩んでいたとき、相原は郷田と、ときどき思い出したようにデートをしては体を重ねていた。
「私、郷田を好きにはならないよ」相原はいつも言う。
「じゃあ、なんでこうして会ってくれんの?」郷田が尋ねると、相原はいつも悲しそうな顔をする。
「なんでだろうね。ダメだよね、こんなんじゃ」
 相原は郷田との浮気がみんなに知れ渡った後、一度水野に謝っているようだった。もう会わないと強く宣言したのだという。だからこうして会いつづけることは相原の負担になるとわかっていたけれど、郷田は気持ちを押し留めることができなかった。


 そもそものはじめ、郷田は相原と水野が付き合っていることを知らなかった。だから声をかけたときは純粋な気持ちだったし、そのとき水野と付きあっているという話を聞いて、とても落胆した。
「ずっと友だちってことになるけど、それでもいい?」
 それはとても残酷な言葉だったが、郷田には申し出を断ることができなかった。ふたりはしばしば話をして笑いあった。そのたびに郷田は、今すぐ、無理矢理にでも相原を抱きしめたいという衝動をかろうじて抑えていた。
 どうしてこんなに好きになってしまうのだろうと、郷田は何度も自問自答した。なぜ沸き上がってくるこの感情を止めることができないのだろう。人を好きになることに理由などないというけれど、まさかそんな状況が自分に巡ってくるとは思ってもいなかった。恋している自分を好きになれるような女の子だったら状況に陶酔することもできるだろうけれど、郷田は恋している自分を嫌悪していた。そんな人間になどなりたくないし、何より似合わない。自分のようなガサツな男が恋に胸を焦がしているなんて、端から見たら気持ち悪がられるに違いない。
 もはや恋は能動的な感情ですらなかった。向こうから不意にやってきて、気づいたときには捕らわれてしまっていたのだ。相原から発された特殊な引力が、郷田をピンポイントに引きつけ、離さず、苦しめる。恋などという美しい名前を被ってはいるが、これはむしろ呪いではないだろうか。
 さらに相原には彼氏がいる。もしもこの屈折した状況が、郷田の恋愛感情をより引き立てているとしたら……。吐き気がする思いだった。もちろんこんなことは誰にも相談できない。感情を吐き出せない郷田は、自分の中で悩みを大きく育ててしまう。一刻も早く相原に対する姿勢を決めてしまわないと、いつかおかしくなってしまうのではないかと感じていたのだった。
 現に今、相原のことを少しでも考えるだけで、所構わず勃起してしまう。これは大問題だった。教室での授業中だったらまだいいが、体育の時間だったりすると隠す術すらない。これまではお腹が痛いふりをしてしゃがみこむとか、トイレに行って収まるまで瞑想するとかの方法でなんとか乗り切ってきたが、さすがに限界がきている。相原の顔は、考えまいとすればするほど頭に浮かんでくる。そして、想像の中の相原が悩ましげな表情を見せたり服を脱ごうとしたりするより前に、その予感だけで勃起してしまう。
 顔だけではない。『相原サユミ』という文字列ですら郷田を混乱させる。たとえばテスト問題について懸命に考えているとき、思考に『相原サユミ』という言葉が紛れ込んでくる。それも全く関連性のない場所で、不意に頭を過るのだ。次の中から間違っているものを選びなさい。さてAからDのなかで相原サユミと矛盾しているのは……相原サユミ?
 混乱の中、郷田はなんとしてでも相原と付きあうことに決めたのだった。どんな障害が立ちはだかってもいい。相原と付きあわないと、あるいはせめてそこに向かって努力しなければ、俺がおかしくなってしまう。
 唇を多少強引な手段で奪ったのは、冬の寒い日のことだった。あたりには雪が積もっていて、クリスマスのイルミネーションが地面に反射していた。ふたりは映画を見終わって帰路についていた。
 その日の相原は、水野にデートをキャンセルされて落ち込んでいたのだった。郷田が相原と出かけることができるのは、相原に予定がなく、水野には予定があり、そして相原が寂しさを感じているときに限られていた。郷田はそういうタイミングを見逃さなかった。相原に一日一回メールを送り、それを律儀に続けていた。情報を得るのと引換に、聞きたくない話を聞かされることも多かった。水野が相原にどうやって愛を表現し、それを相原がどれだけ嬉しいと思ったか、記念日のキスがどれだけ素敵だったか。相原からの返信がこないとき、水野の腕枕の中にいるのかもしれないと想像するだけで、胸が焼けるような思いだった。
 キスしよう。一回ぐらいいいだろ? 郷田は緊張しながら、それを隠して相原に伝えた。相原は馬鹿にしたように笑う。ダメだよ水野がいるもん。裏切れない。わかってるでしょ? 予定をすっぽかした水野に対する悪口を散々言ったあとだったにも関わらず、相原が水野を愛している自分を見失うことはなかった。
「別にキスくらいで、何を失うわけでもないだろ?」郷田は言う。「でも、それだけで俺はすごく幸せな気分になれるんだよ。俺のためだと思って、一回でいいからさ」
「郷田の言ってることもわからなくはないけど、私ね、罪悪感を感じるのが嫌なんだ。次に水野と会ったとき、どんな顔していいかわからなくなっちゃうでしょ」
「そんなに好きなの? あんだけ悪口言ってたじゃんか」
「好きだよ。好きだからむかついてんじゃん」相原は口を尖らせて言う。
 相原の尖った口は、少しばかり誇張されている。自分を愛している郷田の前だからこそ見せる表情だ。そんな相原が可愛くて、郷田はなんとしてでもキスしなければという強迫観念に駆られる。今を逃せば次はないかもしれないという考えが、思いを加速させる。
「なあ、その好きっていう気持ちってさ、俺と一回キスしたくらいで揺らぐようなもんなわけ?」郷田は言う。
「……どういうこと?」
「水野のことが本当に好きなら、ここで一回キスするくらいなんでもないだろ? 罪悪感を感じたってさ、それを上回るくらい好きなら、自分に胸を張っていられるよ」
「私がよくても……水野はきっと嫌な気持ちになるよ」
「言わなきゃいいじゃん。水野に内緒にしとけば、あとは相原だけの問題だろ?」
「そうかもしれないけど……」
「試してみようぜ。一回キスしても、水野への気持ちが揺らがないかどうかさ。揺らぐようだったら、そんなん本物の愛じゃないでしょ」
「試すとか、そういう問題じゃないと思うんだけど」
「相原さ、怖がってんだろ? 俺とキスすると、それだけで気持ちが揺らいじゃうんじゃないかって、水野より俺のことを好きになっちゃうんじゃないかって、怖がってんだろ?」
「そんなことない」相原は少し怒って言う。
「いや、怖がってる。俺にはわかるよ。相原は水野への愛に自信がなくなってんだよ。だからこんなに……」
 郷田が畳みかけると、それを遮って、相原は郷田に顔を近づけ、乱暴に唇を接触させた。
「バカにしないでよ」相原は吐き捨てるように言う。
「なあ、もう一回しようぜ」
「は? なんで?」
「一回も二回も一緒だろ?」
 今度は郷田からキスをする。固く抵抗していた相原だったが、仕方がないと思ったのか、次第に体の力を抜いていく。郷田は気持ちが通じ合っていないという事実を痛いほど実感しながらも、その分だけ意地になって、唇を奪う。
 長い時間の後、ふたりが離れると、相原は郷田のことを睨む。
「ふざけないで」
「ふざけてなんかない。俺は真剣だよ」郷田は強い口調で言う。「相原、おまえ愛ってどんなもんだか知ってるか? 愛してるって苦しいんだぜ。ひとりでいても、いつも相原のことを考えてる。いっそ出会わなければ良かったって思うことすらある。そういう気持ちのこと、想像したことあるか?」
「よくわかんない……」
「わかんなくてもいいからさ、俺がそう思ってるってことだけ、知っててくれよ。それだけで俺、幸せだからさ」
「口先だけの言葉で困らせるのはやめて」
「口先だけじゃないんだ。俺さ、おまえのこと考えるだけで所構わず勃起しちゃうんだぜ」
「嘘でしょ」
「嘘じゃないよ。体育の時間なんかマジ地獄なんだからな」
「バカじゃないの?」
 相原はそう言って吹き出す。郷田はその顔を見ながら、幸せな気持ちでいる。そして、どれだけ辛い目に会おうとも、どんな障害が立ちふさがろうとも、この女を俺のものにしてやろうという決意を、さらに固くする。


 それからふたりは会うとキスをするようになる。相原はいつも抵抗するが、郷田が強引に迫るとやがて力を抜き、唇が唇に触れる。そのたびに相原は言う。私、郷田を好きにはならないよ。
 やがて郷田は、拒否する相原の微妙な力加減や、それをやめるタイミングの持つ意味に気づきはじめる。おそらく相原は愛されることに飢えていて、愛されている状態を失いたくなくて、だから郷田を完全には拒否できないのだろう。郷田は次第に、相原を強引に求めることに躊躇しなくなる。歪んだ関係が続き、そんな中、郷田は相原への気持ちが本当に愛なのかどうかがよくわからなくなってくる。そもそも愛とは何なのかさえ、よくわかっていなかったことに、ようやく気づいたのかもしれない。
 ときどき相原とそんな話をする。たとえばある日の午後、放課後の教室で、複数の人を愛することは罪なのかということについて。
「やっぱりダメだよ。裏切りだもん」相原は席に座ったまま言う。
「じゃあ、水野がそれを許したら?」郷田は相原の前の席で、椅子に反対向きで座りながら言う。部活はサボっている。相原に夢中になってからというもの、その他の全てに対して本気になれないのだ。
「水野は許さないよ、たぶん」相原が答える。
「たとえばの話だよ。水野が許したとしたらさ、相原は俺のことを愛せる?」
「同時にってこと?」
「そう」
「うーん……単に自分に受け皿がないってだけかもしれないけど、気持ちをどう持ってればいいのか、わかんなくなっちゃう」
「単純にさ、俺といるときは俺のことを愛してればいいし、水野といるときには、水野のことを愛してればいいんじゃないの?」
「じゃあ、ひとりでいるときは?」
「考えたい方のことを考えればいいさ」
「無理だよ。比べちゃう」
「比べてもいいんじゃない?」
 郷田が言うと、相原は少しだけ考えてから言う。
「私はね、比べちゃダメなんだと思う。誰かのことを好きって気持ちはさ、ふたつを並べて比べだしちゃった瞬間に、崩れていくものだと思うの」
「ちょっと待てよ」郷田は言う。「比べたこともないのにそうやって言うのはやめようぜ。それじゃ俺は、どんだけ努力しても、水野に勝てないってことになっちゃうだろ?」
「ひとつ誤解があると思うんだけど」相原が反論する。「私は比べてるよ。最近さ、ひとりでいるといつも、水野と郷田のことを比べてる。でもね、比べることができるのは、水野と郷田のどっちといたら幸せだとか、どっちといたら嫌なことが多いだとか、そういうことだけなの。あるいは、どっちが私のことを愛してくれてるかとか……なんにしても、それは私の愛する気持ちじゃないの。愛する気持ちにくっついてる、いろんなことを比べることはできても、愛を比べることはできないの。だからさ、こんなこと、そもそもから間違ってるのよ。私は水野を愛してる。だから他の誰も愛さない。それで話はおしまい」
 相原は話を打ち切ったように思われたが、それで席を立つわけでもなく、かといって言葉を接ぐわけでもなく、何か言いたそうな顔をして黙りこんでいた。まるで郷田の反論を待っているようだった。もし相原の達した結論に、相原自身が納得できていないとしたら――郷田は考える――この結論を崩すことのできる意見とはいったい何なのだろう。だが相原への愛を誰かへのそれと比べたことのない郷田には、答えが見つからないのだった。
 ふたりがしばらく黙っていると、教室に黒川がやってくる。あまりにタイミングができすぎていたので、もしかしたら会話を教室の外で聞いていたのかもしれないと、郷田は思う。しかし黒川はそんな様子を見せず、偶然出くわして驚いたような態度で、ふたりに話しかけてくる。
「最近ふたり、仲いいね」
 その目に何もかも見通されているようで、郷田は少し焦る。相原は平然と答える。
「こっちの勝手でしょ」
「もちろん勝手だけどさ、ちょっと気になりはするよね。ほら、相原は水野と付きあってるわけだしさ」黒川はさらりと言う。
「言いたいことがあるならはっきり言えば?」相原が言う。
「おまえ、なんか悩んでんの?」黒川が尋ねる。
 相原はその問いに答えない。郷田もまた何を言っていいかわからずに硬直してしまう。
 相原と黒川の関係が独特なのは、郷田もなんとなく感じ取っていた。互いのことをよくわかっているにも関わらず、口出しをしたりせず、見守りあっているような雰囲気を醸しだしていた。ふたりは普段どういう話をしているのだろうと、郷田は不思議に思う。相原は、水野や自分とのことを相談しているのだろうか。ときに黒川からアドバイスがあり、相原はそれに従ったりするのだろうか。だとしたら、郷田のいる前で、黒川がこのような質問を投げたことには、いったいどんな意図があるのだろうか。
「悩んでるかどうかはまあ、相原の勝手だけどさ」黒川が口を開く。「おまえはいつも難しく考えすぎなんだって」
「うるさいなぁ」相原は言う。
「ごめんな。でも自分の気持ちに正直じゃない相原とか、あんま見たくないからさ。それじゃ、俺行くわ。下で水野と待ち合わせしてんだ」
 黒川は早口で言うと、机から教科書か何かを取り出して、教室を去っていった。
「聞いてたんかな?」郷田が言う。
「あいつ、いつもそうなの」相原は呟く。「全部わかったようなふりして、変なこと言って私のこと惑わせて、それでサッと逃げてくの。ほんとムカつく。私の気持ちは私のもので、あいつのものなんかじゃないのに」
 その言葉とは裏腹に、相原から何かを言いたそうな雰囲気は消え去っていた。いつも自由に見える相原も、実は周りからどう見られるかという問題によって雁字搦めにされていて、そこから逃れるために有効な理論を求めつづけているのだろう。そんな相原が自分の気持ちに正直でいつづけられるのは、黒川のおかげなのかもしれなかった。
 もし黒川の言うように、相原が自分の感情にブレーキをかけているとしたら、それを外してあげることはできないだろうかと、郷田は考える。ふたりが周りから祝福される関係ならば、相原は自分になびくかもしれない。
 相原が納得し、そして噂を聞いた誰もが共感する浮気のラブストーリーとは、いったいどんなものだろうか。どんな経緯があれば、郷田と相原が体を重ねることを、みんなが祝福してくれるだろうか。


 一番簡単なのは、水野が暴力を振るうなどして、相原を傷つけることだ。ネガティブな噂や、誰かを批判する噂は拡散しやすい。しかし暴力には理由が必要だった。水野が手を挙げるには、それ相応の罪が相原の側になければいけない。あるいは水野が元来、暴力的な性質をもっていなければならない。何もないところに生まれる暴力は、物語としてのリアリティに欠けている。
 だとすると、水野と相原の愛を上回る何かが、郷田との間に存在している必要がある。それもわかりやすくなければいけない。長々と説明しなくても、たったひとつのエピソードを語るだけで、愛の深さが示されなければならない。そうでなければ噂として拡散はしないだろう。
 たとえば死の危機に瀕している相原を郷田が救う物語を考えてみる。これだけ強いエピソードがあれば、愛が移ろうことにも納得がいくだろう。しかし現実問題として、相原を危険な目にあわせたくはなかった。死の危機など偶然では起こりえない出来事だし、もしそれを起こそうとすると、愛する人を傷つけることになってしまう。さすがにそれは良心が痛む。
 そうなるとわかりやすいエピソードで愛を示すのは不可能だ。
 では逆転の発想はどうだろう。エピソードそのものはわかりにくくても、それを理解できることがひとつのステータスになるような物語を作ればいい。私なんだか相原さんの気持ちもわかるかも、そう呟くことが他の人より一段大人の証になるような、そんな物語を。
 たとえば激しい雨が降っているとする。舞台は校門前で、時刻は夕方、走り去ろうとする相原を追いかけて、傘も差さずに郷田が走る。そして大声で叫ぶ。頼むから振り向いてくれ。もう一度だけでいいから。相原は迷った末に振り返る。その瞳は涙に濡れている。郷田は無理矢理に笑顔を作り、ありがとうと言う。その言葉は声にならない。相原はたまらず走りだす。そして郷田に近づき、強く抱きしめる。郷田もまた抱きしめ返す。もう二度と離さないと、強く心に誓いながら……。
 そうなると、大切なのは郷田がどれだけ強く相原のことを想っているか、ということになる。相原が郷田の強い愛に心を打たれるなら、その愛は他の何とも比較できないくらいに強くなくてはならない。心が揺れ動いても仕方ないと、誰もが納得してしまうくらいに。でも愛の強さなど、いったいどうやって示せばいいのだろうか。
 激しい雨をものともしない姿は、愛の証明になるだろうか。校門前という場所で恥らいもなく大声をあげることはどうだろう。それだけでは足りない気がした。もっともっと大きなハードルが欲しかった。それをものともせずに突き進むからこそ、愛の強さが証明できるのだ。
 距離はどうだろう、と郷田は考える。大切な用事で訪れている、はるか遠い場所から相原のために駆けつけるというシナリオは、愛を示すのに一役買うだろうか。あるいは大切なものを捨てるというのはどうだろう。部活の大会の日なのにも関わらず、それを捨てて相原に会うことを優先するというのは?
 しかし、さしあたってに遠くへ行く大切な予定などなかったし、今ですらおろそかになっている柔道の練習を再開し、大会へ出場するのにも無理があった。郷田は自分の矮小さに絶望する。何かを捨てることで強い意思を示すためには、郷田自身が捨てる価値のある何かを持っていなければならないのだ。激しい雨も、校門前での恥辱も、考えてみれば同じだった。それを他の人に見られて傷つくプライドがそもそも高くなければ、愛の証明には役立たない。あの人があんなことまで、というギャップを示せないことには、納得性の高い物語を作ることはできない。
 手詰まりだった。でも何もしないよりはマシだと考えた郷田は、とりあえず降水確率をチェックする。近々、豪雨が降ったりしないものだろうか。雷が轟いてくれたりすると、なおよいのだけれど。


 期末テストの最終日が終わると、相原から郷田のところに連絡があった。水野と喧嘩しちゃった、会えないかな?
 断る理由などなかった。郷田は相原の家の近くにある、約束の駐車場へと向かう。
 その日は雨だった。相原はパジャマの上にコートを羽織っていて、街灯の下で小さくなって座り込んでいた。ふたりは傘と傘がぶつかるくらいに接近して、小さな声で話をした。
「喧嘩って?」郷田が尋ねる。
「あのね」相原は質問を無視する。「郷田とのことさ、水野に言ったの。キスしてるって。罪悪感に耐え切れなくなっちゃったんだ」
 郷田はびっくりする。不貞を働いているのは自分だから、非は自分にある。明日、水野にどんな顔をして会えばいいだろう。
「それで?」郷田は口が乾いてしまい、うまく言葉を紡げない。
「水野ね、怒らなかった。そっかって呟いて、それで終わり。ねえ、あいつなに考えてんだと思う?」
「わかんないけどさ、俺だったら絶対怒るよ。そんで相手を殴りにいく……ってこんなことしてる自分に言えたことじゃないけどさ、相原のこと愛してるなら、やっぱそうすると思うよ」
「じゃ、私、愛されてないのかな?」
「そういうことになるんじゃねぇか?」郷田は言う。本心でもあるが、もちろん下心もあった。
「最近ね、ずっと不安だったんだ」相原は淡々と語る。「もしかしたら自分は愛されてないんじゃないかって、理由はないんだけど、なんかそんな気がしてたの。それでも私は水野が好きだから、迷うことなんかないんだけど、でも、ときどき寂しくなる。一方通行って寂しいんだ」
「わかるよ」郷田は自分のこととして呟く。
「どうすればいい?」相原はなぜか、郷田に尋ねる。
「俺じゃダメなのか?」郷田は言う。
 相原はしばらく黙る。街灯の光が相原の顔に影を作り、まるで設えられた照明のように、その憂鬱な表情をより引き立てている。郷田の頭の片隅に、ほんの小さな考えが浮かび上がってくる。作為。でも郷田は、その考えをすぐに捨て去る。なぜなら郷田は、相原を心の底から愛していて、この瞬間も勃起してしまっていて、それを隠しながら相原に優しくしようと必死になっていたからだ。
 相原はゆっくり立ち上がり「ごめんね」と言って背を向ける。郷田も立ち上がり、自分の傘を捨てると、後ろから相原を抱きしめる。雨が郷田の服を濡らす。そのまま長い時間が過ぎる。郷田の服が完全に濡れるのに十分なほど、長い時間が。
「寒いよね。うちに寄ってく? 今日、私の家、親がいないから……」背中を向けたまま、相原が言う。
「いいの?」
 相原はそれには答えず、郷田の手を握る。ゆっくりと歩き出す相原に、郷田は着いていく。何かに取り込まれていくのを感じる。あらかじめ決められた物語の中へと、導かれていくのを感じる。そして同時に、郷田はその状態を、とても心地良く思っていた。
 家に入ると郷田はシャワーを借りた。熱い湯で体を念入りに洗っても勃起が収まらずに焦り、頭から水を浴びる。ようやく正常な状態になったのを確認すると、寒さに震えながら用意された新しいバスタオルで体を拭く。リビングへ行くと、ハーブティーが用意されていた。今まで飲んだことのないような、不思議な味がした。
 相原はコートを脱いで、ピンク色のパジャマ姿になっていた。少し大きめで、手が半分ほど隠れていた。相原は薄い化粧をしていたが、郷田はそれに気づかない。
「こんな可愛い彼女がいたら、俺、絶対に放っておかないのにな」郷田が言う。
「やめてよ、そんなこと言うの」相原は郷田の目を見ようとしない。
「なんで? 本心だぜ?」
「わかってるよ。わかってるから、うれしくなるんだ。うれしくなると……申し訳なく思う」
「水野のことは、忘れなよ」郷田はそう言うと、相原に近づいてキスをする。
「そんなの」キスが終わって、相原は言う。「やっぱり無理だよ。だからさ、このまま帰ってもらっちゃ……ダメかな?」
 相原の言葉は、郷田を傷つけるようで傷つけない、拒否ではなく受容でもない、覚悟は要求するが勇気は奪わない、とても微妙なニュアンスを伴っていた。
「帰らないよ」郷田はまるで自らが運命を切り開いたかのように強く言うと、そのまま相原を抱きしめる。
 パジャマのボタンをひとつずつ外すと、相原はピンク色の可愛らしい下着をつけている。頬を赤く染め、伏し目がちになりながら、既に悩ましげな吐息を漏らしている。腕から服を抜こうとすると、相原は拒否する。お願い、恥ずかしいから。我慢ができない郷田は、上を諦め、すぐさまズボンを脱がしにかかる。
「やっぱりさ……」相原が呟くが、郷田は聞こえないふりをする。
 ズボンは特に抵抗なくスルリと脱げる。相原がわずかに腰を浮かせていたことに、郷田はやはり気づいていない。夢にまで見たその瞬間に、完全に理性を失っている。
 下半身に手を伸ばすと、相原は声を出して喘いだ。
「気持ちいい?」郷田は尋ねる。
「気持よくない」相原は言う。
「嘘だ」郷田が泳ぐ相原の視線を捕らえ、その奥を覗き込みながら言う。
「嘘じゃないもん」相原は視線を逃がす。「やっぱり水野じゃなきゃ……んっ」
 水野の名前を聞いて瞬間的に躊躇した郷田だったが、その直後の喘ぎによって再び、理性は彼方に飛ばされる。口づけをして、相原の髪に顔を埋め、シャンプーの淡い香りを嗅ぎながら、少しずつ確実に、背徳感が植えつけられているのに気づく。郷田は重いものを担わされながらも、目の前の体に酔っている。甘い香りに、柔らかい感触に、そして一瞬先への期待感に囚われている。やがて背徳感すら、甘美な一瞬を彩るスパイスへと変わる。
 郷田は相原を貫く。長い間夢を見続け、授業中に勃起するという恥辱に耐え続けた可哀想な下半身が、その夢を叶える。郷田は激しく息を切らしながら、幸せの絶頂にいる。
「水野……」
 相原はそう呟くと、一筋の涙を流す。郷田は気づかないふりをして、相原にキスをする。


 それから三日間、郷田と相原は抱きあいつづけた。互いの体を貪りあい、寝て、起きるとシャワーを浴び、また抱きあいはじめる。外には一度も出なかったし、冷蔵庫の中にあるものを生のまま齧る以外には何も口にしなかった。さすがにヤバイんじゃないかと郷田が思い、それを何度か言おうとしたが、すぐ隣にいる相原を見ると言葉は消え去った。この魔法のような時間を終わりにしてしまったら二度と触れることができないかもしれない裸体が、判断力を麻痺させた。触れあっているときにはこれで最後にしようと思っているのだが、離れるともう一度だけと求めてしまう。次第に自暴自棄のような気持ちになる。どこまでも落ちていこう。どうなったってかまわない。全ての煩わしさを思考の外に追いやって、愛へひた走る自分の姿に酔っていた。それは郷田があんなにも嫌がっていた、恋する男の姿に他ならなかった。そして自分だけではなく、相原と共に堕落しているという事実が、その馬鹿げたイメージを輝かせていた。
 結局、郷田の親が不審に思って学校に連絡したことをきっかけに、巡り巡ってふたりの魔法は解かれ、愛を紡ぎあった時間のことは皆に知れ渡ることとなった。
 噂は具体的な言葉で発信されたわけではなく、何かを質問されたときの相原の伏し目や、郷田への熱いまなざしによって周りから塗り固められていった。噂の半分は正しかったけれど、半分は間違っていた。たとえば郷田が雨の中、相原の家の二階まで壁を登り、窓から侵入したのだという荒唐無稽なエピソードすら付加され、しかし郷田もその間違った噂を積極的に訂正しようとはしなかった。そんなことよりも、あれを最後にもう幸せな時間はやってこないのだろうかということの方が、よほど気がかりだった。相原は今、水野のことをどう思っているのだろう。俺のことをどう思っているのだろう。そして、あの幸せな時間のことを、どう捉えているのだろう。
 郷田は一ヶ月の間ひとりで悩みつづけた。噂は水野にも知られることとなり、相原は頭を下げて謝ったのだという。たったひとときの過ちでした、あなたのことがまだ好きです、どうか許してください、見捨てないで。もちろんそれすら噂話で、郷田は直接見たわけでもなければ、相原から話を聞いたわけでもない。でも、もし真実だとしたら……。
 ある日、郷田は廊下で相原とすれ違う。目を合わせることができずにいると、相原は小走りで郷田に近づいてきて、耳元で囁く。今度はさ、郷田の家に行ってもいい?
 郷田には相原の気持ちがまるで理解できなかった。悩んでいた自分を馬鹿にされたような気すらした。でも、郷田は相原の描いた道筋から逸れることができない。相原は自分よりもずっと自由でいて、対する自分は縛りつけられているけれど、それをどうすることもできない。
 他人の描いた物語に、作為に、一度身を委ねてしまった報いだった。もはや相原の一言によって、郷田の物語は自在に書き換わる。


 相原から抜け出せない郷田に、黒川が忠告する。
「あんまり調子に乗るんじゃねぇぞ」
 学校の廊下で急に呼び止められたので反射的に立ち止まってしまったが、郷田からすれば被害者は自分だった。だいたい相原に対して自分に正直になれと忠告したのはあんたじゃないか、という気持ちもあった。だから郷田は、黒川の言葉を軽く流そうとしたのだった。
「気をつけるよ」
 それだけ言うと踵を返す。しかし、黒川は郷田の前に回りこんできて言った。
「ほんとにわかってんの?」
 その好戦的な姿勢に、郷田は苛立つ。
「何が言いたいの?」
「調子に乗って相原のこと抱き続けてんじゃねぇぞって言ってんだよ」黒川はまわりに聞こえないよう小声で凄む。
「そんな単純な問題じゃねぇんだよ」
 今の複雑な関係を説明するのが面倒だったので、話にケリをつけようとする。しかし、黒川は納得しなかった。
「んなことはわかってるよ。わかった上で調子に乗んなって言ってんの」
「わかってんなら教えてくれよ」郷田は言う。「俺はどうすりゃいいわけ?」
「相原に会わなきゃいいんだよ。それでどんだけひどい思いをしたってな」
 どこまで想像できているのだろうと、郷田は少し怖くなる。相原といい黒川といい、どこまでも先回りしてくる。郷田が先回りされていたことに気づくのは全てが終わった後のことだ。どうやら俺とは違う目線でものを見ているらしい、と郷田は思う。それとも俺が馬鹿なだけなのか?
「……黒川は俺に傷つけって言いたいわけ?」
「残酷なことはやめろって言いたいだけだ。愛は麻薬だぜ? おまえにはわからないかもしれないけど、愛されてるってのはとんでもない快感なんだよ」
 愛されるのは快感? そんなのあたりまえだろうと郷田は思う。だからこそ人は愛し愛されるのだ。もし相原が自分のことを愛してくれたとしたら、そんなに幸せなことはない。
 黒川は話を続ける。
「問題は、おまえが与えてんのが無償の愛だってことだ。愛さなくても愛されるなんて、そんな楽なことはないだろう? 相原はそのうち中毒になるぜ」
「なるならなればいいさ。俺がいなきゃいられなくなるんなら、そんなに幸せなことはないよ」
「なんにもわかっちゃいないんだな」黒川は馬鹿にしたように笑う。「おまえに溺れるんじゃない、愛されることに溺れんだ。おまえ、その調子で一生愛してやれんの? 無理だろ? そしたら相原はどうなんの?」
「意味わかんねぇよ」郷田は黒川を突き飛ばす。「愛されることに溺れる? なにそれ、哲学かなんか? ってか俺はそれ聞いて、いったいどうすりゃいいわけ? だいたい何でおまえが相原のことでムキになってんの?」
「……ムキになってんのはお前だろ」
 黒川は立ち上がって服の埃を払う。小さく深呼吸すると、郷田の目を見据え、悪意を込めた口調で言う。
「もういいよ。おまえ見てたらむかついてきたから、突っかかっちまった。悪かった、気にすんな」
 そのときの話の内容はすぐに忘れてしまった。郷田の記憶に残ったのは黒川に対する苛立ちだけだった。
 でもあるとき、郷田が相原と抱き合っていると、急に黒川が何を言いたかったのかを理解する瞬間がやってきたのだった。夕方のラブホテルでのことだ。
「私、郷田を好きにはならないよ」相原は郷田の腕の中で、まるで自分に言い聞かせるように呟く。
「じゃあ、なんでこうして会ってくれんの?」郷田が言うと、相原は悲しそうな顔をして言うのだった。
「なんでだろうね。ダメだよね、こんなんじゃ」
 相原は誰に向けてでもなく、ゆっくりと続ける。
 郷田みたいにね、自分の気持ちを正直に伝えてくれると、すごくうれしくなる。どんなに辛いときも、どんなに寂しいときも、郷田みたいに私のことを好きでいてくれる人がいるんだって思うだけで、なんだか救われたような気持ちになるんだ。私はね、たぶん郷田のことを好きになるのが怖いの。好きになって、それでこの関係性が変わっちゃって、いつか郷田が私のことを、今みたいに愛してくれなくなるんじゃないかって、恐れてる。
 郷田は何かを言おうとしたのだが、相原はそれを遮って言う。わかってるよ、たぶん郷田はそんなことないって言ってくれるんだよね。私が郷田のことを好きになっても、俺は相原のことがずっと好きだよって、言ってくれるんだよね。それが信じられないわけじゃないよ。そう信じてるし、信じたい。でもね……もしそれが本当だとしても、私は今のほうが幸せなんじゃないかって気がする。ひどいこと言ってるって思うかもしれないけど、でも私は、こうしてるのが好き。今の関係性のままで、こうしてるのが、すごく好きなの。
 だから……いいよね?
 相原のことが嫌いになれたら、どんなに楽だろうと郷田は思う。このどうしようもない状況から抜け出すことができたら、何ひとつ苦しむことはないのに。しかしそれはあり得ない仮定の話に過ぎなかった。
 郷田は相原が好きだった。それは自分ではコントロール出来ない、どこからともなくやってきて郷田を縛りつけた、謎の感情なのだった。人はそれを愛と呼ぶ。
 郷田は、この感情を何と呼ぶべきかと考える。やはり呪いだろうか。