アイドルロジック-3

 夜空を見ながら水野は思う。きっと月だからいけないんだ、と。
 夜に外を歩けば必ず目に入ってくる月からどうしても相原を連想してしまうせいで、何度も思い返してしまう。そうして回想が繰り返されることで、水野にとって相原との記憶は、人生におけるほんの短い期間の出来事にすぎないのに、ずっと忘れることができないのだった。
 もちろんそれだけが理由ではないだろう。あの頃の出来事ひとつひとつが、水野の感情を大きく揺さぶっていたのは事実だ。でも、何も相原だけに心を揺さぶられていたわけではない。知り合いにひどく裏切られたこともあったし、友人が死んでしまったことだってあった。母親に申し訳ないと思ったことや、かつての恩師に言われた大切な言葉もある。ときに優越感もあったし、敗北感もあった。伝えられなかった愛の言葉だってあった。
 でも、思い出すのはいつも相原のことだ。
 大学に入ってからはじめて付きあった彼女と月が強く結びついていたら、その子のことをこうして何度も思い返したかもしれない。水野にとって相原とのことが重要な記憶になったのも、もしかしたらただの偶然かもしれないのだ。
 そう考えると水野は、記憶の所有権を失ったような気持ちになる。星と星とが光を交換するような記憶のシステムは、もはや水野自身に制御できるようなものではないのかもしれない。望んだときに光は遠すぎて届かず、望みもしないのに何万年も前の光が、不意に水野を照らしたりする。


 大学生の頃だったろうか、夏休みで地元に帰ったとき、水野は街で郷田とばったり出くわしたことがある。郷田もまた相原と疎遠になってしまったらしく、何かを分かち合おうと思ったのか、水野に声をかけてきたのだった。
 実際にあったことをまるで正確につかめていない水野は、詳しい話を尋ねずにはいられなかった。郷田は申し訳なさそうなそぶりを見せながらも、徐々に口を開くと、懐かしく思い返すような表情で言葉を紡いだ。相原をずっと好きだったこと、その気持ちを自分では制御できなかったこと、相原はあくまで水野が好きだったこと、でもある日、水野と喧嘩したのだと連絡があった日に、今までと違う瞬間がやってきたこと。
 水野には、雨の日に郷田を呼び出した相原の気持ちが、まるでわからなかった。そもそも水野は、郷田たちが抱き合いつづけた三日間の前後に、相原と喧嘩をした覚えがない。水野が忘れているのでなければ、それは嘘だったのだろう。
 嘘について水野は、相原から同じエピソードを二度聞いたことがある。それは相原がまだ幼い頃の話で、姉と一緒に留守番をしていたときのことだ。
 その日、親が用意しておいてくれた晩ご飯のスープを、相原はこぼしてしまった。足にかかってしまい、相原は火傷したのだという。相原の太もものあたりに淡い痕が残っているのを、水野は見たことがある。よくよく観察しなければ気づかないようなものだったけれど、相原はにとってはコンプレックスらしく、膝より丈が短いスカートは履かないようにしているらしい。
 帰ってきて泣いている相原を見た親が訳を訊くと、相原の姉はこう言ったのだという。ごめんなさい、私がご飯の用意をするとき、手が滑ってこぼしちゃったの。
 相原はその話をするとき、姉の口真似をした。水野は相原の姉に会ったことがなかったから、それが似ているのかそうでないのかはわからなかったが、演技を差し挟むことによってなんでもないエピソードのひとつに過ぎないんだと装う口ぶりはむしろ、相原にとってそれが引っかかり続けている記憶だということを逆に強調しているように思えた。
 相原によると、姉はそういった罪をかぶるといったことを、好んでやっているように見えたそうだ。ふたり喧嘩をして怒られたときや、夜更かしを咎められたときなど、弁明の言葉に小さな嘘を差し挟み、責任を自分の方に、少しだけ重めに振り分けた。幼い相原には、そんな嘘をつく意味がわからなかった。ただ不思議に思っていただけだった。でも大きくなってから、あることに気づいたのだという。
 それは受験する高校を決めるときのことだった。相原の親は、結果的に通うことになった高校を受けることを勧めていたが、相原は違った希望を持っていた。どこに行ったって楽しくやれると思っていたし、通う高校なんて人生にとってさして大きな意味を持つものではないと感じていたから、無駄な努力などせず、もっと楽に受かる高校を目指ばいいと考えていた。親に反抗する年頃だった相原を説得する方法がわからなかった親は、姉を味方につけることにしたようだった。
 ある日、相原の部屋にやってきた姉は、親の言うことを聞いておくべきだと思うと伝えた。もちろん相原は反抗した。でも、お願いだから私の言うとおりにして、絶対に悪いことにはならないからと、そう言われると、姉の言うことを否定できなかった。論理的に反対できなかったわけではなく、もっと根本的に、姉の意見をそもそも否定することができない自分に気づいたのだという。ひとりになってから、なんで姉に対して頷いてしまったのだろうと考えていたとき、相原の頭を過ぎったのは、幼い頃に姉がついた数々の嘘だった。
「もちろん私がお姉ちゃんのためにしてあげたことだってたくさんあったはずなんだけど……具体的なことは全然思い出せないんだよね。でも、お姉ちゃんの嘘はさ、たくさん覚えてるんだ」
 水野は思う。相原にとってこの話がどういう意味を持っているのかを推し量るのは難しいけれど、彼女が嘘というものに対して何らかの重きをおいているとしたら、郷田への一言もまた意識的に発されたに違いない。嘘である以上、その言葉が喉を通るとき、心が揺れ動いたはずなのだ。そのときの相原の気持ちを知りたかった。
 もちろん、それは叶わぬ願いだ。それどころか、相原や郷田の言葉の全てが本当に語られたことだという確信すら、今の水野にはないのだった。記憶は捏造されているかもしれない。いや、水野自身は全てが真実であると固く信じているのだが、その信念とは裏腹に、記憶の光景は焦点を失っている。


 終電を逃して街をふらつきながらそんなことを考えていた水野は、ふと携帯で相原に電話をかけてみようと思い立つ。高校の頃の電話番号だから、もう繋がらないかもしれない。繋がったって何を話せばいいのかわからない。それでも発信ボタンを押したのは、記憶があいまいなことに対して、急に強い不安を感じたからだった。
 相原は今、誰かを愛しているのだろうか。もしかすると、結婚しているかもしれない。そもそも酔っていなければ電話をかけようなどとは思わなかっただろうけれど、なぜかそのときは、今の相原を知りたいと思う自分に正直になれたのだった。その日キャバクラで払うことになった金額が思いのほか多かったことも、水野の心境に何らかの影響を与えていたのかもしれない。
 それでも実際のコール音を聞いていると、徐々に不安が強くなっていった。一言目に何を言うかも決めていない。もし電波の向こうから相原の声が聞こえてきたとして、どう反応したらいいのだろう。
 夜空を見る。やはり同じ月の下にいる相原のことを、いつかのようにうまく想像することができない。
 小さな携帯から発される信号は、街に設置された機械に拾われ、巨大な中継地点を介して目的地を目指しているはずで、その大きなイメージを思い描きながら水野は、まるで救難信号みたいじゃないかと、若干の気まずさを感じる。やがてコール一回ごとに迫ってくる圧迫感に耐えられなくなり、水野は繋がる前に電話を切ってしまう。そして後悔する。こんなことをしたって何にもならないじゃないか。たとえまともに会話できたとしたって、近況を尋ねて世間話をするのが関の山だ。
 たぶん、もうあのときのように率直な言葉を交わし合うことはできないだろう。そう考えると、水野は寂しさを感じる。理由などない。過ぎ去ってしまったことを思うと、ただ寂しい気持ちになるのだ。
「大人になったら私たち、どうなってるのかな」相原は言った。「まだ付きあってるのかな。さすがにもう、別れちゃってるのかな」
 たとえば学校からの帰り道で、ふたりはゆっくりと歩きながら話をした。
「どうだろうね」
 水野は別れているだろうと思いながらも、相原を悲しませたくなくて曖昧な受け答えをした。相原は続ける。
「でもさ、別れてたとしても、水野は私のこと覚えてるかな」
「もちろん忘れないよ」
 水野が言うと、相原はうれしそうに微笑む。
「ときどきでいいからさ、私のこと思い出してくれたら、うれしいな」
「ときどきでいいの?」
 水野がふざけて尋ねると、相原は笑って答える。
「別れてるのにいつもってのは、さすがにちょっと気持ち悪いかも」
 水野は想像したのだった。もし相原が別れてからもずっと水野のことを考えてくれているとしたら、どんな気持ちだろう。少しだけめんどくささを感じるかもしれない。でもそれくらい誰かの記憶に強く刻まれてるってのは、結構うれしいものなんじゃないだろうか。
 相原は続ける。
「でもね、私と付きあったことで水野の高校生活は変わったわけでしょ。その高校生活が大学生活に影響を与えて、大学生活が水野の人生に影響を与えて、っていうふうに、水野が私と会ったことで違う人生を送ることになったとしたら、なんか……」
 そこまで言うと、相原は少しだけ言いよどむ。
「なんか?」水野が尋ねると、相原は言った。
「んー、快感? よくわかんないけど」
 水野の記憶は、焦点を失っている。あのとき相原は、本当に「快感」と言ったのだろうか。それとも「申し訳ない」のような、もっと別のニュアンスの言葉で会話を締めくくったのだろうか。相原は自分の存在が水野に影響を与えていくことを、どう思っていたのだろう。それを望んでいたのだろうか。
 水野は昔のことを思い出しながら、相変わらず夜空を眺めている。月や星を眺めていたあの頃の自分を、懐かしく思っている。
「月を見るとさ、相原を思い出すんだ」
「なんで?」相原は不思議そうに尋ねる。
「いや、相原も月を見てるかなって。それで、もし見てるとしたら、それは同じ月なんだよなって」
 もしかしたらメールに書いたひとことだったかもしれない。あるいは、心の中で思っていただけで、伝えはしなかったのかもしれない。何にせよ、昔の出来事を正確に思い出すことはできない。それは遠い星の姿を捉えることができないようなものだと、水野は思う。
 図鑑で読んだか、あるいは理科の先生の言葉だったか、地球に星の光が届くとき、星は既に死んでいるのだという話を聞いて、かつて水野は不思議な感動を覚えたのだった。見えてるのに、もうないんだ。星は遠いから、すごくすごく遠いから、光が届いたときにはもう、なくなってるかもしれないんだ。だから今の光は昔の光。でもそれってどういうことなんだろう。水野は昔の相原のことを、今更ながら思い返している。今の光は昔の光。でもそれってどういうことなんだろう。貯水池に忍び込んだのは夜のことだったろうか、昼のことだったろうか。曖昧な記憶の中で風景は、時間すら歪んでしまう。やがて、あれは確かに夜のことだったと確信すら抱く。そう、絶対に夜だった。あたりは暗くて、とても不安で……でも空には満天の星空が広がっていたんだ。本当に体験したことだから、本当に体験したことのように、風景が頭の中に広がってゆく。
 光の速さは絶対的で、時間は相対的なのだと、幼い水野は教わった。風に向かって水野が走れば、風を速く感じるけれど、光に向かって走っても、光は速くならない。光よりも速いスピードで進んでも、速度は上がらず、代わりに時間が遅くなっていく。
 幼い水野は貯水池で、小さなカプセルを光速より速く投げる想像をする。カプセルには手紙を入れてもいいけれど、それでは少し重すぎるような気もする。だから水野は、そこに「思い」を入れる。思いに重さはほとんどないから、無限に近いスピードが出るはず!
 遠い星の光に照らされ、今はなき星のことを思う。星への思いは光よりも速く進み、瞬間的に目的地まで届く。時間は相対的に遅くなり、最終的にはほとんど停止し、だから思いは時を容易に超える。貯水池の水野が、今の水野にカプセルを投げれば、ふたりは思いを交わすことができる。今の水野が、あの頃の相原にカプセルを投げれば、ふたりは思いを交わすことができる。高速を超える思いの交換を前に、時間など何の意味もなさない。
 時間を超えて思いは駆け巡る。過去へ未来へとカプセルは投げ交わされる。水野もまたカプセルを投げる。ありったけの力を込めて、貯水池に佇む相原へ向かって。
 それはたぶん相原に届く。でも、貯水池のほとりで佇む相原は、知らない誰かと一緒にいて、ふたりはキスをしている。ちょうど映画に出てくるカップルのように。
 記憶という星空の下で、水野は立ち尽くしている。宇宙の星々は互いに光を交換しつづけている。生まれたばかりの星もある。消え去りそうな星もある。全ての光は古い光だ。
「でもどうせ忘れちゃうんでしょ?」相原が言う。
「絶対に忘れないよ」
「ううん……きっとだんだん頭の隅っこに追いやられちゃうよ。それで小さくなって、いつか消えちゃうの。忘れたってことすら思い出さないよ」
 帰り道、ふたりは別れる前にいつも立ち話をするのだった。どんなくだらない話も尽きることはなく、気づけば陽が落ちていることも多かった。
「相原は?」
「ん?」
「俺のこと、忘れるのかな」
「うーん」相原は少し考えてから言う。「たぶん細かいことは忘れちゃうんじゃないかな。そのうち顔も忘れちゃうかもしれない。名前も思い出せなくなったりして」
「名前くらいは覚えててよ」
「がんばる。でも私、忘れっぽいからな」
 相原はそう言って笑う。水野もつられて笑うけれど、お互いにお互いのことを忘れるなどとは、露ほども思っていなかった。
「でもね」相原は急に真面目な顔になると、こう言う。「全部忘れちゃったとしても、水野を好きだっていうこの気持ちだけは、なんだか覚えてる気がするんだよね。いつか誰かを好きだったっていう、この気持ちだけは」
「ちょっと悲しいけど、それで十分かもね」
 水野は言う。相原は何かを考えるようなそぶりをするけれど、急に頷いて、空を見上げる。
「ね、月がきれいだよ」
 水野もまた、夜空へと視線を移す。
 記憶の中の相原が言う。水野は遠い星を眺めるように、私のことを眺めているんだね。そして、私のことを好きでいてくれてるんだね。でもさ、それってずっとずっと前の私なんだよ。私の光をあなたが受け取ったそのとき、私はもういなくなってるよ。
 だからそれは、私の光じゃないよ。水野が受け取ったそのときに、水野の光になったんだよ。だって私はもういないから。水野が受け取ったその光を、投げ返す先はもうどこにもないから。
 ビルも人も木々も星も、いつかは全部消えちゃうんだよ。記憶の中の誰かが言う。相原は、それを笑顔で受け入れる。水野のよく知っている、あの笑顔で。


 坂下は、郷田と相原が隠れて寝ているという事実ををどこからか嗅ぎつけ、それを水野に伝えた。その話の流れで、なぜかふたりはキスをすることになる。過ちというものが得てしてそうであるように、ほとんど反射的な行為だった。
 それは後日、相原に伝わることとなる。誰からだったのかはよくわからない。
 相原は水野を問い詰める。水野もまた相原を問い詰めるが、ふたりの言い争いは互いに問題としている点がズレている。水野が事実について語ろうとすると、相原は気持ちについて語りだし、この価値観のズレをこれからもずっと受容しつづけなければならないのかと思った瞬間、水野は別れよう、と口に出していた。
 この一連の出来事のことを、水野はあまり思い出したくない。
 互いに許し合わなければふたりの幸せを維持できないことはわかっていたけれど、相原を許せるほど水野は大人になりきれなかった。ふたりが継続的に寝ていたことへの怒りは、それほどまでに大きかった。郷田と相原の間には、おそらく愛としか表現しようのない感情のやりとりがあったはずだ。それは相原の感情の中で、水野が独占したいと思っている唯一のものだった。だからこそ、自分が過ちを犯してしまったことも、仕方のないことだと思っていた。
「今でも私のことが好き?」相原は尋ねる。
「好きさ。だから怒ってるんだ」
 水野が言うと、相原は本当に悲しそうな顔をして尋ね返してくる。
「じゃあ、なんでキスしたの?」
「キスしたのは間違ってたよ。だから謝る。でもそれだけ混乱してた」
「混乱してるとキスするの?」
「混乱してたとしか言えないよ。だって、坂下のことは好きじゃない。相原のことの方がずっと好きなんだ」
「そんなのわかってる!」と相原は叫ぶ。「それなのにどうしてキスしたのかって聞いてるの。坂下さんよりも私のほうが好きで、それなのに、なんでキスしたのかってことが聞きたいの」
 あのときは相原の言っていることの意味がまるでわからなかった。答えのない質問を投げかけて水野を困らせ、自分が責められるのを避けているのかとさえ思った。でも、今になって考えるとそうではなかったのだろう。
 相原はあのとき、水野の、水野自身すら直視したくないと思っている、しかし内に抱えている確かな想いに、きっとなんとなく気づいていたのだ。


 水野は相原を愛しながら同時に、逃れ得ない場所に自分を縛りつけたことを恨んでいた。そして相原の存在にさえも、強い憎しみを抱いていた。坂下とのキスはきっと、そんな相原への、小さな復讐だったのかもしれない。
 こうしてふたりが別れることになると、情報はすぐ周りにも知れ渡った。水野と坂下、郷田と相原は同じようなことをしていたわけで、双方に非難されるべきだったと水野は思う。でもそのとき、実際に非難されたのは相原ひとりだった。 
 それを機に、瞬く間に相原の全てが否定されていったのだった。誰彼かまわず誘惑するところ、そこに罪悪感を感じていないところ、さらに普段の言動、服装、髪型、金持ちの娘であることすら非難の材料となった。
 当事者だった水野は、そんな話題によく同意を求められた。相原さんってさ。だから相原さんはさ……ね、水野もそう思うでしょ?  はじめは頷いていた水野だったが、そんな数々の言葉に晒されつづけるうちに、他人と話をすることに嫌気が差していった。あんまり相原を非難するなよ、と思う。服装も裕福さもネットで見つけたプライバシーも、今回の件とは関係ないだろう? みんなが同意を前提に話す。同意が保証された空気の中で、相原を非難する。そして暴力から主語が消えていく。
 黒川はある日、水野に言う。みんな気づかないふりをしてるけどさ、暴力って気持ちいいんだよな。罪悪感がなけりゃ、なおさらだ。水野もそう思う。もちろん相原にも悪いところはある。だから被害を受けた人から正当な暴力を受けるのは仕方がないのかもしれない。でも関係のない奴が、相原の、人間誰しも抱えているような弱いところを叩くべきじゃない。
 次はおまえらだぜ、と水野はひとり思う。こういう心ない叩き方をされるのは、無慈悲な噂話に晒されるのは、おまえらだと。人はみんな間違いを犯す。それらは得てして、反射的な過ちだ。でも残酷なことに審判はいつだって時間をかけて行われる。常に正義を主張しながら生きるなんて、ほとんど不可能なのだ。
 しかし当の相原は、そういったことをまるで気にしていないように見えた。軽音部の部室に入り浸っているらしく、教室にはほとんど姿を現さない。結局水野は、それから卒業まで、ほとんど相原と口をきく機会がなかった。
 ただ、一度だけ他の人から相原の話を聞いた。顔も知らない男がやってきて、水野に向かって言ったのだ。ごめんな、俺、お前の彼女と寝ちゃった。
「相原のこと? しばらく前に別れたから、もう付きあってないよ」
 水野が言うと、男は驚く。
「嘘だろ?」
 水野は、男がなんで驚いたのかがわからない。
「嘘じゃないさ。相原に聞いてみなよ」
「でも……おまえ水野だよな」
「だから付きあってたけど、しばらく前に別れたんだ。なにがそんなに納得いかないんだよ」
「だって……」男はそこまで言うと、何かに気づいたように言葉を飲み込んでしまう。「いや、やっぱいいや」
「いいから言えよ」水野が急かすと、男はとても言いにくそうに、小さな声で呟いた。
「だってあいつ……喘ぎながら切なそうに、おまえの名前呼んでたぜ」
 水野はそれが、相原の呪いであるような気がしてならなかった。そして今も、相原の光は水野を照らしつづけている。かつて相原が描いた何かが、物語の形になって、あのとき遅れて水野に届いたように。


 明日の職場でこなさなければならない作業のことをぼんやりと考えながら湯船に浸かっていた水野は、リビングで鳴る着信音に気づき、急いで風呂を出る。慌てて携帯を手に取ってディスプレイを見ると、そこには相原の名前が表示されていた。
 水野は数日前、相原に電話をかけたときのことを思い出す。あのときは相手に着信したという情報が残ることなど考えもしなかった。
 相原は現実に生きている現実の人間だ。水野の記憶の中に、いつまでも高校生の姿で留まっているわけではない。水野が電話を切ればそこで物語が途切れるわけではなく、着信が残っていれば当然、折り返しもするだろう。そんな当たり前のことを、水野は全く考えなかった。だから、着信を前にして、酷く困惑していた。
 でもすぐに、出てみればいいじゃないかと思い直す。記憶の中にいる相原と、今の相原は別なのだ。今の相原とは、昔の恋人同士という新しい関係を築いてみればいい。電話の向こうの相原がどんな人生を送っているかはわからないが……どうあってもそれが現実の相原だ。
 水野は電話をしようと決意する。寒さなのか、それとも緊張からなのか、震える手でダイヤルボタンを押すと、数回のコールの後、電話は繋がった。
「もしもし」水野が言う。
 相手はしばらく黙っていた。静けさからするに、おそらく室内なのだろうと水野は思う。もしかしたら相原の携帯からは水野の番号が消えてしまっていて、誰だかわからない相手に困惑しているのかもしれない。
「相原だよね。あの……」水野が名乗ろうとすると、それを遮るように、電話から声が聞こえてきた。
「どなたですか?」
 それは男の声だった。
 どうして男の声が聞こえるのだろう。水野は一瞬だけ混乱するが、すぐに違う人の携帯に繋がってしまったのだろうと思い直す。
「すいません、間違えました」水野は言う。
「いや、ちょっと待てよ、おまえもしかしてさ……」
 電話の相手はそう言い返してきた。水野を知っているような口ぶりだった。それに気づいたにも関わらず、焦っていた水野は、何かを恐れるように咄嗟に言葉を返してしまう。
「いえ、ごめんなさい、間違えました。失礼します」
 電話を切ると、部屋は静寂に包まれる。そんな中、様々な思いが水野の頭に現れては消えてゆく。
 男は誰なのだろう。知り合いなのだろうか、それとも向こうの勘違いなのだろうか。そもそも、相原の携帯に繋がったのだろうか、それともやはり、全く別人の携帯だったのだろうか。
 やがて水野は、やめようと思っても、ひとつの可能性に思いを巡らせてしまうのだった。繋がった先は相原の携帯で、水野の電話をはじめに受け取ったのも相原だったとしたら。でも電話をかけてきたのは別の人間で、それは水野を知っている人物で……だとすると、相原はなぜわざわざ別の人間に電話を取らせるなんてことをしたんだろう。
 記憶の中の相原が、あのいたずらっぽい笑みを浮かべる。
 水野は裸のまま、リビングの中央で呆然としている。このまま携帯を置こうか、それともかけ直そうか、様々な考えが頭を過ぎっては消えていく。
 水野は不意に、自分のペニスが屹立していることに気づく。今までにないほど強く、硬くなっていることに対して、ひどく混乱する。どうしてこんなことが起こるのだろう。相原の声が蘇る。いつだって私が気持ちよくしてあげる。あなたは、私の言うことだけ聞いてればいいの。全部うまくいく。余計なことを気にする必要なんかない。ただ私のことを、愛していればそれでいい。ただ私のことを、愛しつづけていればそれでいい。ただ私の言うことに、従っていれば、それでいいんだよ。
 水野は再び電話が鳴る期待を、可能性の薄い期待を、捨てることができない。はやくしないと風邪をひいてしまうけれど、電話に翻弄され、記憶に翻弄され、裸のまま携帯を手に立ち尽くしているその馬鹿らしい姿が、なんだか自分には、とても似合っているような気がしているのだった。