アイドルロジック-3

 夜空を見ながら水野は思う。きっと月だからいけないんだ、と。
 夜に外を歩けば必ず目に入ってくる月からどうしても相原を連想してしまうせいで、何度も思い返してしまう。そうして回想が繰り返されることで、水野にとって相原との記憶は、人生におけるほんの短い期間の出来事にすぎないのに、ずっと忘れることができないのだった。
 もちろんそれだけが理由ではないだろう。あの頃の出来事ひとつひとつが、水野の感情を大きく揺さぶっていたのは事実だ。でも、何も相原だけに心を揺さぶられていたわけではない。知り合いにひどく裏切られたこともあったし、友人が死んでしまったことだってあった。母親に申し訳ないと思ったことや、かつての恩師に言われた大切な言葉もある。ときに優越感もあったし、敗北感もあった。伝えられなかった愛の言葉だってあった。
 でも、思い出すのはいつも相原のことだ。
 大学に入ってからはじめて付きあった彼女と月が強く結びついていたら、その子のことをこうして何度も思い返したかもしれない。水野にとって相原とのことが重要な記憶になったのも、もしかしたらただの偶然かもしれないのだ。
 そう考えると水野は、記憶の所有権を失ったような気持ちになる。星と星とが光を交換するような記憶のシステムは、もはや水野自身に制御できるようなものではないのかもしれない。望んだときに光は遠すぎて届かず、望みもしないのに何万年も前の光が、不意に水野を照らしたりする。


 大学生の頃だったろうか、夏休みで地元に帰ったとき、水野は街で郷田とばったり出くわしたことがある。郷田もまた相原と疎遠になってしまったらしく、何かを分かち合おうと思ったのか、水野に声をかけてきたのだった。
 実際にあったことをまるで正確につかめていない水野は、詳しい話を尋ねずにはいられなかった。郷田は申し訳なさそうなそぶりを見せながらも、徐々に口を開くと、懐かしく思い返すような表情で言葉を紡いだ。相原をずっと好きだったこと、その気持ちを自分では制御できなかったこと、相原はあくまで水野が好きだったこと、でもある日、水野と喧嘩したのだと連絡があった日に、今までと違う瞬間がやってきたこと。
 水野には、雨の日に郷田を呼び出した相原の気持ちが、まるでわからなかった。そもそも水野は、郷田たちが抱き合いつづけた三日間の前後に、相原と喧嘩をした覚えがない。水野が忘れているのでなければ、それは嘘だったのだろう。
 嘘について水野は、相原から同じエピソードを二度聞いたことがある。それは相原がまだ幼い頃の話で、姉と一緒に留守番をしていたときのことだ。
 その日、親が用意しておいてくれた晩ご飯のスープを、相原はこぼしてしまった。足にかかってしまい、相原は火傷したのだという。相原の太もものあたりに淡い痕が残っているのを、水野は見たことがある。よくよく観察しなければ気づかないようなものだったけれど、相原はにとってはコンプレックスらしく、膝より丈が短いスカートは履かないようにしているらしい。
 帰ってきて泣いている相原を見た親が訳を訊くと、相原の姉はこう言ったのだという。ごめんなさい、私がご飯の用意をするとき、手が滑ってこぼしちゃったの。
 相原はその話をするとき、姉の口真似をした。水野は相原の姉に会ったことがなかったから、それが似ているのかそうでないのかはわからなかったが、演技を差し挟むことによってなんでもないエピソードのひとつに過ぎないんだと装う口ぶりはむしろ、相原にとってそれが引っかかり続けている記憶だということを逆に強調しているように思えた。
 相原によると、姉はそういった罪をかぶるといったことを、好んでやっているように見えたそうだ。ふたり喧嘩をして怒られたときや、夜更かしを咎められたときなど、弁明の言葉に小さな嘘を差し挟み、責任を自分の方に、少しだけ重めに振り分けた。幼い相原には、そんな嘘をつく意味がわからなかった。ただ不思議に思っていただけだった。でも大きくなってから、あることに気づいたのだという。
 それは受験する高校を決めるときのことだった。相原の親は、結果的に通うことになった高校を受けることを勧めていたが、相原は違った希望を持っていた。どこに行ったって楽しくやれると思っていたし、通う高校なんて人生にとってさして大きな意味を持つものではないと感じていたから、無駄な努力などせず、もっと楽に受かる高校を目指ばいいと考えていた。親に反抗する年頃だった相原を説得する方法がわからなかった親は、姉を味方につけることにしたようだった。
 ある日、相原の部屋にやってきた姉は、親の言うことを聞いておくべきだと思うと伝えた。もちろん相原は反抗した。でも、お願いだから私の言うとおりにして、絶対に悪いことにはならないからと、そう言われると、姉の言うことを否定できなかった。論理的に反対できなかったわけではなく、もっと根本的に、姉の意見をそもそも否定することができない自分に気づいたのだという。ひとりになってから、なんで姉に対して頷いてしまったのだろうと考えていたとき、相原の頭を過ぎったのは、幼い頃に姉がついた数々の嘘だった。
「もちろん私がお姉ちゃんのためにしてあげたことだってたくさんあったはずなんだけど……具体的なことは全然思い出せないんだよね。でも、お姉ちゃんの嘘はさ、たくさん覚えてるんだ」
 水野は思う。相原にとってこの話がどういう意味を持っているのかを推し量るのは難しいけれど、彼女が嘘というものに対して何らかの重きをおいているとしたら、郷田への一言もまた意識的に発されたに違いない。嘘である以上、その言葉が喉を通るとき、心が揺れ動いたはずなのだ。そのときの相原の気持ちを知りたかった。
 もちろん、それは叶わぬ願いだ。それどころか、相原や郷田の言葉の全てが本当に語られたことだという確信すら、今の水野にはないのだった。記憶は捏造されているかもしれない。いや、水野自身は全てが真実であると固く信じているのだが、その信念とは裏腹に、記憶の光景は焦点を失っている。


 終電を逃して街をふらつきながらそんなことを考えていた水野は、ふと携帯で相原に電話をかけてみようと思い立つ。高校の頃の電話番号だから、もう繋がらないかもしれない。繋がったって何を話せばいいのかわからない。それでも発信ボタンを押したのは、記憶があいまいなことに対して、急に強い不安を感じたからだった。
 相原は今、誰かを愛しているのだろうか。もしかすると、結婚しているかもしれない。そもそも酔っていなければ電話をかけようなどとは思わなかっただろうけれど、なぜかそのときは、今の相原を知りたいと思う自分に正直になれたのだった。その日キャバクラで払うことになった金額が思いのほか多かったことも、水野の心境に何らかの影響を与えていたのかもしれない。
 それでも実際のコール音を聞いていると、徐々に不安が強くなっていった。一言目に何を言うかも決めていない。もし電波の向こうから相原の声が聞こえてきたとして、どう反応したらいいのだろう。
 夜空を見る。やはり同じ月の下にいる相原のことを、いつかのようにうまく想像することができない。
 小さな携帯から発される信号は、街に設置された機械に拾われ、巨大な中継地点を介して目的地を目指しているはずで、その大きなイメージを思い描きながら水野は、まるで救難信号みたいじゃないかと、若干の気まずさを感じる。やがてコール一回ごとに迫ってくる圧迫感に耐えられなくなり、水野は繋がる前に電話を切ってしまう。そして後悔する。こんなことをしたって何にもならないじゃないか。たとえまともに会話できたとしたって、近況を尋ねて世間話をするのが関の山だ。
 たぶん、もうあのときのように率直な言葉を交わし合うことはできないだろう。そう考えると、水野は寂しさを感じる。理由などない。過ぎ去ってしまったことを思うと、ただ寂しい気持ちになるのだ。
「大人になったら私たち、どうなってるのかな」相原は言った。「まだ付きあってるのかな。さすがにもう、別れちゃってるのかな」
 たとえば学校からの帰り道で、ふたりはゆっくりと歩きながら話をした。
「どうだろうね」
 水野は別れているだろうと思いながらも、相原を悲しませたくなくて曖昧な受け答えをした。相原は続ける。
「でもさ、別れてたとしても、水野は私のこと覚えてるかな」
「もちろん忘れないよ」
 水野が言うと、相原はうれしそうに微笑む。
「ときどきでいいからさ、私のこと思い出してくれたら、うれしいな」
「ときどきでいいの?」
 水野がふざけて尋ねると、相原は笑って答える。
「別れてるのにいつもってのは、さすがにちょっと気持ち悪いかも」
 水野は想像したのだった。もし相原が別れてからもずっと水野のことを考えてくれているとしたら、どんな気持ちだろう。少しだけめんどくささを感じるかもしれない。でもそれくらい誰かの記憶に強く刻まれてるってのは、結構うれしいものなんじゃないだろうか。
 相原は続ける。
「でもね、私と付きあったことで水野の高校生活は変わったわけでしょ。その高校生活が大学生活に影響を与えて、大学生活が水野の人生に影響を与えて、っていうふうに、水野が私と会ったことで違う人生を送ることになったとしたら、なんか……」
 そこまで言うと、相原は少しだけ言いよどむ。
「なんか?」水野が尋ねると、相原は言った。
「んー、快感? よくわかんないけど」
 水野の記憶は、焦点を失っている。あのとき相原は、本当に「快感」と言ったのだろうか。それとも「申し訳ない」のような、もっと別のニュアンスの言葉で会話を締めくくったのだろうか。相原は自分の存在が水野に影響を与えていくことを、どう思っていたのだろう。それを望んでいたのだろうか。
 水野は昔のことを思い出しながら、相変わらず夜空を眺めている。月や星を眺めていたあの頃の自分を、懐かしく思っている。
「月を見るとさ、相原を思い出すんだ」
「なんで?」相原は不思議そうに尋ねる。
「いや、相原も月を見てるかなって。それで、もし見てるとしたら、それは同じ月なんだよなって」
 もしかしたらメールに書いたひとことだったかもしれない。あるいは、心の中で思っていただけで、伝えはしなかったのかもしれない。何にせよ、昔の出来事を正確に思い出すことはできない。それは遠い星の姿を捉えることができないようなものだと、水野は思う。
 図鑑で読んだか、あるいは理科の先生の言葉だったか、地球に星の光が届くとき、星は既に死んでいるのだという話を聞いて、かつて水野は不思議な感動を覚えたのだった。見えてるのに、もうないんだ。星は遠いから、すごくすごく遠いから、光が届いたときにはもう、なくなってるかもしれないんだ。だから今の光は昔の光。でもそれってどういうことなんだろう。水野は昔の相原のことを、今更ながら思い返している。今の光は昔の光。でもそれってどういうことなんだろう。貯水池に忍び込んだのは夜のことだったろうか、昼のことだったろうか。曖昧な記憶の中で風景は、時間すら歪んでしまう。やがて、あれは確かに夜のことだったと確信すら抱く。そう、絶対に夜だった。あたりは暗くて、とても不安で……でも空には満天の星空が広がっていたんだ。本当に体験したことだから、本当に体験したことのように、風景が頭の中に広がってゆく。
 光の速さは絶対的で、時間は相対的なのだと、幼い水野は教わった。風に向かって水野が走れば、風を速く感じるけれど、光に向かって走っても、光は速くならない。光よりも速いスピードで進んでも、速度は上がらず、代わりに時間が遅くなっていく。
 幼い水野は貯水池で、小さなカプセルを光速より速く投げる想像をする。カプセルには手紙を入れてもいいけれど、それでは少し重すぎるような気もする。だから水野は、そこに「思い」を入れる。思いに重さはほとんどないから、無限に近いスピードが出るはず!
 遠い星の光に照らされ、今はなき星のことを思う。星への思いは光よりも速く進み、瞬間的に目的地まで届く。時間は相対的に遅くなり、最終的にはほとんど停止し、だから思いは時を容易に超える。貯水池の水野が、今の水野にカプセルを投げれば、ふたりは思いを交わすことができる。今の水野が、あの頃の相原にカプセルを投げれば、ふたりは思いを交わすことができる。高速を超える思いの交換を前に、時間など何の意味もなさない。
 時間を超えて思いは駆け巡る。過去へ未来へとカプセルは投げ交わされる。水野もまたカプセルを投げる。ありったけの力を込めて、貯水池に佇む相原へ向かって。
 それはたぶん相原に届く。でも、貯水池のほとりで佇む相原は、知らない誰かと一緒にいて、ふたりはキスをしている。ちょうど映画に出てくるカップルのように。
 記憶という星空の下で、水野は立ち尽くしている。宇宙の星々は互いに光を交換しつづけている。生まれたばかりの星もある。消え去りそうな星もある。全ての光は古い光だ。
「でもどうせ忘れちゃうんでしょ?」相原が言う。
「絶対に忘れないよ」
「ううん……きっとだんだん頭の隅っこに追いやられちゃうよ。それで小さくなって、いつか消えちゃうの。忘れたってことすら思い出さないよ」
 帰り道、ふたりは別れる前にいつも立ち話をするのだった。どんなくだらない話も尽きることはなく、気づけば陽が落ちていることも多かった。
「相原は?」
「ん?」
「俺のこと、忘れるのかな」
「うーん」相原は少し考えてから言う。「たぶん細かいことは忘れちゃうんじゃないかな。そのうち顔も忘れちゃうかもしれない。名前も思い出せなくなったりして」
「名前くらいは覚えててよ」
「がんばる。でも私、忘れっぽいからな」
 相原はそう言って笑う。水野もつられて笑うけれど、お互いにお互いのことを忘れるなどとは、露ほども思っていなかった。
「でもね」相原は急に真面目な顔になると、こう言う。「全部忘れちゃったとしても、水野を好きだっていうこの気持ちだけは、なんだか覚えてる気がするんだよね。いつか誰かを好きだったっていう、この気持ちだけは」
「ちょっと悲しいけど、それで十分かもね」
 水野は言う。相原は何かを考えるようなそぶりをするけれど、急に頷いて、空を見上げる。
「ね、月がきれいだよ」
 水野もまた、夜空へと視線を移す。
 記憶の中の相原が言う。水野は遠い星を眺めるように、私のことを眺めているんだね。そして、私のことを好きでいてくれてるんだね。でもさ、それってずっとずっと前の私なんだよ。私の光をあなたが受け取ったそのとき、私はもういなくなってるよ。
 だからそれは、私の光じゃないよ。水野が受け取ったそのときに、水野の光になったんだよ。だって私はもういないから。水野が受け取ったその光を、投げ返す先はもうどこにもないから。
 ビルも人も木々も星も、いつかは全部消えちゃうんだよ。記憶の中の誰かが言う。相原は、それを笑顔で受け入れる。水野のよく知っている、あの笑顔で。


 坂下は、郷田と相原が隠れて寝ているという事実ををどこからか嗅ぎつけ、それを水野に伝えた。その話の流れで、なぜかふたりはキスをすることになる。過ちというものが得てしてそうであるように、ほとんど反射的な行為だった。
 それは後日、相原に伝わることとなる。誰からだったのかはよくわからない。
 相原は水野を問い詰める。水野もまた相原を問い詰めるが、ふたりの言い争いは互いに問題としている点がズレている。水野が事実について語ろうとすると、相原は気持ちについて語りだし、この価値観のズレをこれからもずっと受容しつづけなければならないのかと思った瞬間、水野は別れよう、と口に出していた。
 この一連の出来事のことを、水野はあまり思い出したくない。
 互いに許し合わなければふたりの幸せを維持できないことはわかっていたけれど、相原を許せるほど水野は大人になりきれなかった。ふたりが継続的に寝ていたことへの怒りは、それほどまでに大きかった。郷田と相原の間には、おそらく愛としか表現しようのない感情のやりとりがあったはずだ。それは相原の感情の中で、水野が独占したいと思っている唯一のものだった。だからこそ、自分が過ちを犯してしまったことも、仕方のないことだと思っていた。
「今でも私のことが好き?」相原は尋ねる。
「好きさ。だから怒ってるんだ」
 水野が言うと、相原は本当に悲しそうな顔をして尋ね返してくる。
「じゃあ、なんでキスしたの?」
「キスしたのは間違ってたよ。だから謝る。でもそれだけ混乱してた」
「混乱してるとキスするの?」
「混乱してたとしか言えないよ。だって、坂下のことは好きじゃない。相原のことの方がずっと好きなんだ」
「そんなのわかってる!」と相原は叫ぶ。「それなのにどうしてキスしたのかって聞いてるの。坂下さんよりも私のほうが好きで、それなのに、なんでキスしたのかってことが聞きたいの」
 あのときは相原の言っていることの意味がまるでわからなかった。答えのない質問を投げかけて水野を困らせ、自分が責められるのを避けているのかとさえ思った。でも、今になって考えるとそうではなかったのだろう。
 相原はあのとき、水野の、水野自身すら直視したくないと思っている、しかし内に抱えている確かな想いに、きっとなんとなく気づいていたのだ。


 水野は相原を愛しながら同時に、逃れ得ない場所に自分を縛りつけたことを恨んでいた。そして相原の存在にさえも、強い憎しみを抱いていた。坂下とのキスはきっと、そんな相原への、小さな復讐だったのかもしれない。
 こうしてふたりが別れることになると、情報はすぐ周りにも知れ渡った。水野と坂下、郷田と相原は同じようなことをしていたわけで、双方に非難されるべきだったと水野は思う。でもそのとき、実際に非難されたのは相原ひとりだった。 
 それを機に、瞬く間に相原の全てが否定されていったのだった。誰彼かまわず誘惑するところ、そこに罪悪感を感じていないところ、さらに普段の言動、服装、髪型、金持ちの娘であることすら非難の材料となった。
 当事者だった水野は、そんな話題によく同意を求められた。相原さんってさ。だから相原さんはさ……ね、水野もそう思うでしょ?  はじめは頷いていた水野だったが、そんな数々の言葉に晒されつづけるうちに、他人と話をすることに嫌気が差していった。あんまり相原を非難するなよ、と思う。服装も裕福さもネットで見つけたプライバシーも、今回の件とは関係ないだろう? みんなが同意を前提に話す。同意が保証された空気の中で、相原を非難する。そして暴力から主語が消えていく。
 黒川はある日、水野に言う。みんな気づかないふりをしてるけどさ、暴力って気持ちいいんだよな。罪悪感がなけりゃ、なおさらだ。水野もそう思う。もちろん相原にも悪いところはある。だから被害を受けた人から正当な暴力を受けるのは仕方がないのかもしれない。でも関係のない奴が、相原の、人間誰しも抱えているような弱いところを叩くべきじゃない。
 次はおまえらだぜ、と水野はひとり思う。こういう心ない叩き方をされるのは、無慈悲な噂話に晒されるのは、おまえらだと。人はみんな間違いを犯す。それらは得てして、反射的な過ちだ。でも残酷なことに審判はいつだって時間をかけて行われる。常に正義を主張しながら生きるなんて、ほとんど不可能なのだ。
 しかし当の相原は、そういったことをまるで気にしていないように見えた。軽音部の部室に入り浸っているらしく、教室にはほとんど姿を現さない。結局水野は、それから卒業まで、ほとんど相原と口をきく機会がなかった。
 ただ、一度だけ他の人から相原の話を聞いた。顔も知らない男がやってきて、水野に向かって言ったのだ。ごめんな、俺、お前の彼女と寝ちゃった。
「相原のこと? しばらく前に別れたから、もう付きあってないよ」
 水野が言うと、男は驚く。
「嘘だろ?」
 水野は、男がなんで驚いたのかがわからない。
「嘘じゃないさ。相原に聞いてみなよ」
「でも……おまえ水野だよな」
「だから付きあってたけど、しばらく前に別れたんだ。なにがそんなに納得いかないんだよ」
「だって……」男はそこまで言うと、何かに気づいたように言葉を飲み込んでしまう。「いや、やっぱいいや」
「いいから言えよ」水野が急かすと、男はとても言いにくそうに、小さな声で呟いた。
「だってあいつ……喘ぎながら切なそうに、おまえの名前呼んでたぜ」
 水野はそれが、相原の呪いであるような気がしてならなかった。そして今も、相原の光は水野を照らしつづけている。かつて相原が描いた何かが、物語の形になって、あのとき遅れて水野に届いたように。


 明日の職場でこなさなければならない作業のことをぼんやりと考えながら湯船に浸かっていた水野は、リビングで鳴る着信音に気づき、急いで風呂を出る。慌てて携帯を手に取ってディスプレイを見ると、そこには相原の名前が表示されていた。
 水野は数日前、相原に電話をかけたときのことを思い出す。あのときは相手に着信したという情報が残ることなど考えもしなかった。
 相原は現実に生きている現実の人間だ。水野の記憶の中に、いつまでも高校生の姿で留まっているわけではない。水野が電話を切ればそこで物語が途切れるわけではなく、着信が残っていれば当然、折り返しもするだろう。そんな当たり前のことを、水野は全く考えなかった。だから、着信を前にして、酷く困惑していた。
 でもすぐに、出てみればいいじゃないかと思い直す。記憶の中にいる相原と、今の相原は別なのだ。今の相原とは、昔の恋人同士という新しい関係を築いてみればいい。電話の向こうの相原がどんな人生を送っているかはわからないが……どうあってもそれが現実の相原だ。
 水野は電話をしようと決意する。寒さなのか、それとも緊張からなのか、震える手でダイヤルボタンを押すと、数回のコールの後、電話は繋がった。
「もしもし」水野が言う。
 相手はしばらく黙っていた。静けさからするに、おそらく室内なのだろうと水野は思う。もしかしたら相原の携帯からは水野の番号が消えてしまっていて、誰だかわからない相手に困惑しているのかもしれない。
「相原だよね。あの……」水野が名乗ろうとすると、それを遮るように、電話から声が聞こえてきた。
「どなたですか?」
 それは男の声だった。
 どうして男の声が聞こえるのだろう。水野は一瞬だけ混乱するが、すぐに違う人の携帯に繋がってしまったのだろうと思い直す。
「すいません、間違えました」水野は言う。
「いや、ちょっと待てよ、おまえもしかしてさ……」
 電話の相手はそう言い返してきた。水野を知っているような口ぶりだった。それに気づいたにも関わらず、焦っていた水野は、何かを恐れるように咄嗟に言葉を返してしまう。
「いえ、ごめんなさい、間違えました。失礼します」
 電話を切ると、部屋は静寂に包まれる。そんな中、様々な思いが水野の頭に現れては消えてゆく。
 男は誰なのだろう。知り合いなのだろうか、それとも向こうの勘違いなのだろうか。そもそも、相原の携帯に繋がったのだろうか、それともやはり、全く別人の携帯だったのだろうか。
 やがて水野は、やめようと思っても、ひとつの可能性に思いを巡らせてしまうのだった。繋がった先は相原の携帯で、水野の電話をはじめに受け取ったのも相原だったとしたら。でも電話をかけてきたのは別の人間で、それは水野を知っている人物で……だとすると、相原はなぜわざわざ別の人間に電話を取らせるなんてことをしたんだろう。
 記憶の中の相原が、あのいたずらっぽい笑みを浮かべる。
 水野は裸のまま、リビングの中央で呆然としている。このまま携帯を置こうか、それともかけ直そうか、様々な考えが頭を過ぎっては消えていく。
 水野は不意に、自分のペニスが屹立していることに気づく。今までにないほど強く、硬くなっていることに対して、ひどく混乱する。どうしてこんなことが起こるのだろう。相原の声が蘇る。いつだって私が気持ちよくしてあげる。あなたは、私の言うことだけ聞いてればいいの。全部うまくいく。余計なことを気にする必要なんかない。ただ私のことを、愛していればそれでいい。ただ私のことを、愛しつづけていればそれでいい。ただ私の言うことに、従っていれば、それでいいんだよ。
 水野は再び電話が鳴る期待を、可能性の薄い期待を、捨てることができない。はやくしないと風邪をひいてしまうけれど、電話に翻弄され、記憶に翻弄され、裸のまま携帯を手に立ち尽くしているその馬鹿らしい姿が、なんだか自分には、とても似合っているような気がしているのだった。

アイドルロジック-2

 高校生の頃の水野が、相原との関係を思い悩んでいたとき、相原は郷田と、ときどき思い出したようにデートをしては体を重ねていた。
「私、郷田を好きにはならないよ」相原はいつも言う。
「じゃあ、なんでこうして会ってくれんの?」郷田が尋ねると、相原はいつも悲しそうな顔をする。
「なんでだろうね。ダメだよね、こんなんじゃ」
 相原は郷田との浮気がみんなに知れ渡った後、一度水野に謝っているようだった。もう会わないと強く宣言したのだという。だからこうして会いつづけることは相原の負担になるとわかっていたけれど、郷田は気持ちを押し留めることができなかった。


 そもそものはじめ、郷田は相原と水野が付き合っていることを知らなかった。だから声をかけたときは純粋な気持ちだったし、そのとき水野と付きあっているという話を聞いて、とても落胆した。
「ずっと友だちってことになるけど、それでもいい?」
 それはとても残酷な言葉だったが、郷田には申し出を断ることができなかった。ふたりはしばしば話をして笑いあった。そのたびに郷田は、今すぐ、無理矢理にでも相原を抱きしめたいという衝動をかろうじて抑えていた。
 どうしてこんなに好きになってしまうのだろうと、郷田は何度も自問自答した。なぜ沸き上がってくるこの感情を止めることができないのだろう。人を好きになることに理由などないというけれど、まさかそんな状況が自分に巡ってくるとは思ってもいなかった。恋している自分を好きになれるような女の子だったら状況に陶酔することもできるだろうけれど、郷田は恋している自分を嫌悪していた。そんな人間になどなりたくないし、何より似合わない。自分のようなガサツな男が恋に胸を焦がしているなんて、端から見たら気持ち悪がられるに違いない。
 もはや恋は能動的な感情ですらなかった。向こうから不意にやってきて、気づいたときには捕らわれてしまっていたのだ。相原から発された特殊な引力が、郷田をピンポイントに引きつけ、離さず、苦しめる。恋などという美しい名前を被ってはいるが、これはむしろ呪いではないだろうか。
 さらに相原には彼氏がいる。もしもこの屈折した状況が、郷田の恋愛感情をより引き立てているとしたら……。吐き気がする思いだった。もちろんこんなことは誰にも相談できない。感情を吐き出せない郷田は、自分の中で悩みを大きく育ててしまう。一刻も早く相原に対する姿勢を決めてしまわないと、いつかおかしくなってしまうのではないかと感じていたのだった。
 現に今、相原のことを少しでも考えるだけで、所構わず勃起してしまう。これは大問題だった。教室での授業中だったらまだいいが、体育の時間だったりすると隠す術すらない。これまではお腹が痛いふりをしてしゃがみこむとか、トイレに行って収まるまで瞑想するとかの方法でなんとか乗り切ってきたが、さすがに限界がきている。相原の顔は、考えまいとすればするほど頭に浮かんでくる。そして、想像の中の相原が悩ましげな表情を見せたり服を脱ごうとしたりするより前に、その予感だけで勃起してしまう。
 顔だけではない。『相原サユミ』という文字列ですら郷田を混乱させる。たとえばテスト問題について懸命に考えているとき、思考に『相原サユミ』という言葉が紛れ込んでくる。それも全く関連性のない場所で、不意に頭を過るのだ。次の中から間違っているものを選びなさい。さてAからDのなかで相原サユミと矛盾しているのは……相原サユミ?
 混乱の中、郷田はなんとしてでも相原と付きあうことに決めたのだった。どんな障害が立ちはだかってもいい。相原と付きあわないと、あるいはせめてそこに向かって努力しなければ、俺がおかしくなってしまう。
 唇を多少強引な手段で奪ったのは、冬の寒い日のことだった。あたりには雪が積もっていて、クリスマスのイルミネーションが地面に反射していた。ふたりは映画を見終わって帰路についていた。
 その日の相原は、水野にデートをキャンセルされて落ち込んでいたのだった。郷田が相原と出かけることができるのは、相原に予定がなく、水野には予定があり、そして相原が寂しさを感じているときに限られていた。郷田はそういうタイミングを見逃さなかった。相原に一日一回メールを送り、それを律儀に続けていた。情報を得るのと引換に、聞きたくない話を聞かされることも多かった。水野が相原にどうやって愛を表現し、それを相原がどれだけ嬉しいと思ったか、記念日のキスがどれだけ素敵だったか。相原からの返信がこないとき、水野の腕枕の中にいるのかもしれないと想像するだけで、胸が焼けるような思いだった。
 キスしよう。一回ぐらいいいだろ? 郷田は緊張しながら、それを隠して相原に伝えた。相原は馬鹿にしたように笑う。ダメだよ水野がいるもん。裏切れない。わかってるでしょ? 予定をすっぽかした水野に対する悪口を散々言ったあとだったにも関わらず、相原が水野を愛している自分を見失うことはなかった。
「別にキスくらいで、何を失うわけでもないだろ?」郷田は言う。「でも、それだけで俺はすごく幸せな気分になれるんだよ。俺のためだと思って、一回でいいからさ」
「郷田の言ってることもわからなくはないけど、私ね、罪悪感を感じるのが嫌なんだ。次に水野と会ったとき、どんな顔していいかわからなくなっちゃうでしょ」
「そんなに好きなの? あんだけ悪口言ってたじゃんか」
「好きだよ。好きだからむかついてんじゃん」相原は口を尖らせて言う。
 相原の尖った口は、少しばかり誇張されている。自分を愛している郷田の前だからこそ見せる表情だ。そんな相原が可愛くて、郷田はなんとしてでもキスしなければという強迫観念に駆られる。今を逃せば次はないかもしれないという考えが、思いを加速させる。
「なあ、その好きっていう気持ちってさ、俺と一回キスしたくらいで揺らぐようなもんなわけ?」郷田は言う。
「……どういうこと?」
「水野のことが本当に好きなら、ここで一回キスするくらいなんでもないだろ? 罪悪感を感じたってさ、それを上回るくらい好きなら、自分に胸を張っていられるよ」
「私がよくても……水野はきっと嫌な気持ちになるよ」
「言わなきゃいいじゃん。水野に内緒にしとけば、あとは相原だけの問題だろ?」
「そうかもしれないけど……」
「試してみようぜ。一回キスしても、水野への気持ちが揺らがないかどうかさ。揺らぐようだったら、そんなん本物の愛じゃないでしょ」
「試すとか、そういう問題じゃないと思うんだけど」
「相原さ、怖がってんだろ? 俺とキスすると、それだけで気持ちが揺らいじゃうんじゃないかって、水野より俺のことを好きになっちゃうんじゃないかって、怖がってんだろ?」
「そんなことない」相原は少し怒って言う。
「いや、怖がってる。俺にはわかるよ。相原は水野への愛に自信がなくなってんだよ。だからこんなに……」
 郷田が畳みかけると、それを遮って、相原は郷田に顔を近づけ、乱暴に唇を接触させた。
「バカにしないでよ」相原は吐き捨てるように言う。
「なあ、もう一回しようぜ」
「は? なんで?」
「一回も二回も一緒だろ?」
 今度は郷田からキスをする。固く抵抗していた相原だったが、仕方がないと思ったのか、次第に体の力を抜いていく。郷田は気持ちが通じ合っていないという事実を痛いほど実感しながらも、その分だけ意地になって、唇を奪う。
 長い時間の後、ふたりが離れると、相原は郷田のことを睨む。
「ふざけないで」
「ふざけてなんかない。俺は真剣だよ」郷田は強い口調で言う。「相原、おまえ愛ってどんなもんだか知ってるか? 愛してるって苦しいんだぜ。ひとりでいても、いつも相原のことを考えてる。いっそ出会わなければ良かったって思うことすらある。そういう気持ちのこと、想像したことあるか?」
「よくわかんない……」
「わかんなくてもいいからさ、俺がそう思ってるってことだけ、知っててくれよ。それだけで俺、幸せだからさ」
「口先だけの言葉で困らせるのはやめて」
「口先だけじゃないんだ。俺さ、おまえのこと考えるだけで所構わず勃起しちゃうんだぜ」
「嘘でしょ」
「嘘じゃないよ。体育の時間なんかマジ地獄なんだからな」
「バカじゃないの?」
 相原はそう言って吹き出す。郷田はその顔を見ながら、幸せな気持ちでいる。そして、どれだけ辛い目に会おうとも、どんな障害が立ちふさがろうとも、この女を俺のものにしてやろうという決意を、さらに固くする。


 それからふたりは会うとキスをするようになる。相原はいつも抵抗するが、郷田が強引に迫るとやがて力を抜き、唇が唇に触れる。そのたびに相原は言う。私、郷田を好きにはならないよ。
 やがて郷田は、拒否する相原の微妙な力加減や、それをやめるタイミングの持つ意味に気づきはじめる。おそらく相原は愛されることに飢えていて、愛されている状態を失いたくなくて、だから郷田を完全には拒否できないのだろう。郷田は次第に、相原を強引に求めることに躊躇しなくなる。歪んだ関係が続き、そんな中、郷田は相原への気持ちが本当に愛なのかどうかがよくわからなくなってくる。そもそも愛とは何なのかさえ、よくわかっていなかったことに、ようやく気づいたのかもしれない。
 ときどき相原とそんな話をする。たとえばある日の午後、放課後の教室で、複数の人を愛することは罪なのかということについて。
「やっぱりダメだよ。裏切りだもん」相原は席に座ったまま言う。
「じゃあ、水野がそれを許したら?」郷田は相原の前の席で、椅子に反対向きで座りながら言う。部活はサボっている。相原に夢中になってからというもの、その他の全てに対して本気になれないのだ。
「水野は許さないよ、たぶん」相原が答える。
「たとえばの話だよ。水野が許したとしたらさ、相原は俺のことを愛せる?」
「同時にってこと?」
「そう」
「うーん……単に自分に受け皿がないってだけかもしれないけど、気持ちをどう持ってればいいのか、わかんなくなっちゃう」
「単純にさ、俺といるときは俺のことを愛してればいいし、水野といるときには、水野のことを愛してればいいんじゃないの?」
「じゃあ、ひとりでいるときは?」
「考えたい方のことを考えればいいさ」
「無理だよ。比べちゃう」
「比べてもいいんじゃない?」
 郷田が言うと、相原は少しだけ考えてから言う。
「私はね、比べちゃダメなんだと思う。誰かのことを好きって気持ちはさ、ふたつを並べて比べだしちゃった瞬間に、崩れていくものだと思うの」
「ちょっと待てよ」郷田は言う。「比べたこともないのにそうやって言うのはやめようぜ。それじゃ俺は、どんだけ努力しても、水野に勝てないってことになっちゃうだろ?」
「ひとつ誤解があると思うんだけど」相原が反論する。「私は比べてるよ。最近さ、ひとりでいるといつも、水野と郷田のことを比べてる。でもね、比べることができるのは、水野と郷田のどっちといたら幸せだとか、どっちといたら嫌なことが多いだとか、そういうことだけなの。あるいは、どっちが私のことを愛してくれてるかとか……なんにしても、それは私の愛する気持ちじゃないの。愛する気持ちにくっついてる、いろんなことを比べることはできても、愛を比べることはできないの。だからさ、こんなこと、そもそもから間違ってるのよ。私は水野を愛してる。だから他の誰も愛さない。それで話はおしまい」
 相原は話を打ち切ったように思われたが、それで席を立つわけでもなく、かといって言葉を接ぐわけでもなく、何か言いたそうな顔をして黙りこんでいた。まるで郷田の反論を待っているようだった。もし相原の達した結論に、相原自身が納得できていないとしたら――郷田は考える――この結論を崩すことのできる意見とはいったい何なのだろう。だが相原への愛を誰かへのそれと比べたことのない郷田には、答えが見つからないのだった。
 ふたりがしばらく黙っていると、教室に黒川がやってくる。あまりにタイミングができすぎていたので、もしかしたら会話を教室の外で聞いていたのかもしれないと、郷田は思う。しかし黒川はそんな様子を見せず、偶然出くわして驚いたような態度で、ふたりに話しかけてくる。
「最近ふたり、仲いいね」
 その目に何もかも見通されているようで、郷田は少し焦る。相原は平然と答える。
「こっちの勝手でしょ」
「もちろん勝手だけどさ、ちょっと気になりはするよね。ほら、相原は水野と付きあってるわけだしさ」黒川はさらりと言う。
「言いたいことがあるならはっきり言えば?」相原が言う。
「おまえ、なんか悩んでんの?」黒川が尋ねる。
 相原はその問いに答えない。郷田もまた何を言っていいかわからずに硬直してしまう。
 相原と黒川の関係が独特なのは、郷田もなんとなく感じ取っていた。互いのことをよくわかっているにも関わらず、口出しをしたりせず、見守りあっているような雰囲気を醸しだしていた。ふたりは普段どういう話をしているのだろうと、郷田は不思議に思う。相原は、水野や自分とのことを相談しているのだろうか。ときに黒川からアドバイスがあり、相原はそれに従ったりするのだろうか。だとしたら、郷田のいる前で、黒川がこのような質問を投げたことには、いったいどんな意図があるのだろうか。
「悩んでるかどうかはまあ、相原の勝手だけどさ」黒川が口を開く。「おまえはいつも難しく考えすぎなんだって」
「うるさいなぁ」相原は言う。
「ごめんな。でも自分の気持ちに正直じゃない相原とか、あんま見たくないからさ。それじゃ、俺行くわ。下で水野と待ち合わせしてんだ」
 黒川は早口で言うと、机から教科書か何かを取り出して、教室を去っていった。
「聞いてたんかな?」郷田が言う。
「あいつ、いつもそうなの」相原は呟く。「全部わかったようなふりして、変なこと言って私のこと惑わせて、それでサッと逃げてくの。ほんとムカつく。私の気持ちは私のもので、あいつのものなんかじゃないのに」
 その言葉とは裏腹に、相原から何かを言いたそうな雰囲気は消え去っていた。いつも自由に見える相原も、実は周りからどう見られるかという問題によって雁字搦めにされていて、そこから逃れるために有効な理論を求めつづけているのだろう。そんな相原が自分の気持ちに正直でいつづけられるのは、黒川のおかげなのかもしれなかった。
 もし黒川の言うように、相原が自分の感情にブレーキをかけているとしたら、それを外してあげることはできないだろうかと、郷田は考える。ふたりが周りから祝福される関係ならば、相原は自分になびくかもしれない。
 相原が納得し、そして噂を聞いた誰もが共感する浮気のラブストーリーとは、いったいどんなものだろうか。どんな経緯があれば、郷田と相原が体を重ねることを、みんなが祝福してくれるだろうか。


 一番簡単なのは、水野が暴力を振るうなどして、相原を傷つけることだ。ネガティブな噂や、誰かを批判する噂は拡散しやすい。しかし暴力には理由が必要だった。水野が手を挙げるには、それ相応の罪が相原の側になければいけない。あるいは水野が元来、暴力的な性質をもっていなければならない。何もないところに生まれる暴力は、物語としてのリアリティに欠けている。
 だとすると、水野と相原の愛を上回る何かが、郷田との間に存在している必要がある。それもわかりやすくなければいけない。長々と説明しなくても、たったひとつのエピソードを語るだけで、愛の深さが示されなければならない。そうでなければ噂として拡散はしないだろう。
 たとえば死の危機に瀕している相原を郷田が救う物語を考えてみる。これだけ強いエピソードがあれば、愛が移ろうことにも納得がいくだろう。しかし現実問題として、相原を危険な目にあわせたくはなかった。死の危機など偶然では起こりえない出来事だし、もしそれを起こそうとすると、愛する人を傷つけることになってしまう。さすがにそれは良心が痛む。
 そうなるとわかりやすいエピソードで愛を示すのは不可能だ。
 では逆転の発想はどうだろう。エピソードそのものはわかりにくくても、それを理解できることがひとつのステータスになるような物語を作ればいい。私なんだか相原さんの気持ちもわかるかも、そう呟くことが他の人より一段大人の証になるような、そんな物語を。
 たとえば激しい雨が降っているとする。舞台は校門前で、時刻は夕方、走り去ろうとする相原を追いかけて、傘も差さずに郷田が走る。そして大声で叫ぶ。頼むから振り向いてくれ。もう一度だけでいいから。相原は迷った末に振り返る。その瞳は涙に濡れている。郷田は無理矢理に笑顔を作り、ありがとうと言う。その言葉は声にならない。相原はたまらず走りだす。そして郷田に近づき、強く抱きしめる。郷田もまた抱きしめ返す。もう二度と離さないと、強く心に誓いながら……。
 そうなると、大切なのは郷田がどれだけ強く相原のことを想っているか、ということになる。相原が郷田の強い愛に心を打たれるなら、その愛は他の何とも比較できないくらいに強くなくてはならない。心が揺れ動いても仕方ないと、誰もが納得してしまうくらいに。でも愛の強さなど、いったいどうやって示せばいいのだろうか。
 激しい雨をものともしない姿は、愛の証明になるだろうか。校門前という場所で恥らいもなく大声をあげることはどうだろう。それだけでは足りない気がした。もっともっと大きなハードルが欲しかった。それをものともせずに突き進むからこそ、愛の強さが証明できるのだ。
 距離はどうだろう、と郷田は考える。大切な用事で訪れている、はるか遠い場所から相原のために駆けつけるというシナリオは、愛を示すのに一役買うだろうか。あるいは大切なものを捨てるというのはどうだろう。部活の大会の日なのにも関わらず、それを捨てて相原に会うことを優先するというのは?
 しかし、さしあたってに遠くへ行く大切な予定などなかったし、今ですらおろそかになっている柔道の練習を再開し、大会へ出場するのにも無理があった。郷田は自分の矮小さに絶望する。何かを捨てることで強い意思を示すためには、郷田自身が捨てる価値のある何かを持っていなければならないのだ。激しい雨も、校門前での恥辱も、考えてみれば同じだった。それを他の人に見られて傷つくプライドがそもそも高くなければ、愛の証明には役立たない。あの人があんなことまで、というギャップを示せないことには、納得性の高い物語を作ることはできない。
 手詰まりだった。でも何もしないよりはマシだと考えた郷田は、とりあえず降水確率をチェックする。近々、豪雨が降ったりしないものだろうか。雷が轟いてくれたりすると、なおよいのだけれど。


 期末テストの最終日が終わると、相原から郷田のところに連絡があった。水野と喧嘩しちゃった、会えないかな?
 断る理由などなかった。郷田は相原の家の近くにある、約束の駐車場へと向かう。
 その日は雨だった。相原はパジャマの上にコートを羽織っていて、街灯の下で小さくなって座り込んでいた。ふたりは傘と傘がぶつかるくらいに接近して、小さな声で話をした。
「喧嘩って?」郷田が尋ねる。
「あのね」相原は質問を無視する。「郷田とのことさ、水野に言ったの。キスしてるって。罪悪感に耐え切れなくなっちゃったんだ」
 郷田はびっくりする。不貞を働いているのは自分だから、非は自分にある。明日、水野にどんな顔をして会えばいいだろう。
「それで?」郷田は口が乾いてしまい、うまく言葉を紡げない。
「水野ね、怒らなかった。そっかって呟いて、それで終わり。ねえ、あいつなに考えてんだと思う?」
「わかんないけどさ、俺だったら絶対怒るよ。そんで相手を殴りにいく……ってこんなことしてる自分に言えたことじゃないけどさ、相原のこと愛してるなら、やっぱそうすると思うよ」
「じゃ、私、愛されてないのかな?」
「そういうことになるんじゃねぇか?」郷田は言う。本心でもあるが、もちろん下心もあった。
「最近ね、ずっと不安だったんだ」相原は淡々と語る。「もしかしたら自分は愛されてないんじゃないかって、理由はないんだけど、なんかそんな気がしてたの。それでも私は水野が好きだから、迷うことなんかないんだけど、でも、ときどき寂しくなる。一方通行って寂しいんだ」
「わかるよ」郷田は自分のこととして呟く。
「どうすればいい?」相原はなぜか、郷田に尋ねる。
「俺じゃダメなのか?」郷田は言う。
 相原はしばらく黙る。街灯の光が相原の顔に影を作り、まるで設えられた照明のように、その憂鬱な表情をより引き立てている。郷田の頭の片隅に、ほんの小さな考えが浮かび上がってくる。作為。でも郷田は、その考えをすぐに捨て去る。なぜなら郷田は、相原を心の底から愛していて、この瞬間も勃起してしまっていて、それを隠しながら相原に優しくしようと必死になっていたからだ。
 相原はゆっくり立ち上がり「ごめんね」と言って背を向ける。郷田も立ち上がり、自分の傘を捨てると、後ろから相原を抱きしめる。雨が郷田の服を濡らす。そのまま長い時間が過ぎる。郷田の服が完全に濡れるのに十分なほど、長い時間が。
「寒いよね。うちに寄ってく? 今日、私の家、親がいないから……」背中を向けたまま、相原が言う。
「いいの?」
 相原はそれには答えず、郷田の手を握る。ゆっくりと歩き出す相原に、郷田は着いていく。何かに取り込まれていくのを感じる。あらかじめ決められた物語の中へと、導かれていくのを感じる。そして同時に、郷田はその状態を、とても心地良く思っていた。
 家に入ると郷田はシャワーを借りた。熱い湯で体を念入りに洗っても勃起が収まらずに焦り、頭から水を浴びる。ようやく正常な状態になったのを確認すると、寒さに震えながら用意された新しいバスタオルで体を拭く。リビングへ行くと、ハーブティーが用意されていた。今まで飲んだことのないような、不思議な味がした。
 相原はコートを脱いで、ピンク色のパジャマ姿になっていた。少し大きめで、手が半分ほど隠れていた。相原は薄い化粧をしていたが、郷田はそれに気づかない。
「こんな可愛い彼女がいたら、俺、絶対に放っておかないのにな」郷田が言う。
「やめてよ、そんなこと言うの」相原は郷田の目を見ようとしない。
「なんで? 本心だぜ?」
「わかってるよ。わかってるから、うれしくなるんだ。うれしくなると……申し訳なく思う」
「水野のことは、忘れなよ」郷田はそう言うと、相原に近づいてキスをする。
「そんなの」キスが終わって、相原は言う。「やっぱり無理だよ。だからさ、このまま帰ってもらっちゃ……ダメかな?」
 相原の言葉は、郷田を傷つけるようで傷つけない、拒否ではなく受容でもない、覚悟は要求するが勇気は奪わない、とても微妙なニュアンスを伴っていた。
「帰らないよ」郷田はまるで自らが運命を切り開いたかのように強く言うと、そのまま相原を抱きしめる。
 パジャマのボタンをひとつずつ外すと、相原はピンク色の可愛らしい下着をつけている。頬を赤く染め、伏し目がちになりながら、既に悩ましげな吐息を漏らしている。腕から服を抜こうとすると、相原は拒否する。お願い、恥ずかしいから。我慢ができない郷田は、上を諦め、すぐさまズボンを脱がしにかかる。
「やっぱりさ……」相原が呟くが、郷田は聞こえないふりをする。
 ズボンは特に抵抗なくスルリと脱げる。相原がわずかに腰を浮かせていたことに、郷田はやはり気づいていない。夢にまで見たその瞬間に、完全に理性を失っている。
 下半身に手を伸ばすと、相原は声を出して喘いだ。
「気持ちいい?」郷田は尋ねる。
「気持よくない」相原は言う。
「嘘だ」郷田が泳ぐ相原の視線を捕らえ、その奥を覗き込みながら言う。
「嘘じゃないもん」相原は視線を逃がす。「やっぱり水野じゃなきゃ……んっ」
 水野の名前を聞いて瞬間的に躊躇した郷田だったが、その直後の喘ぎによって再び、理性は彼方に飛ばされる。口づけをして、相原の髪に顔を埋め、シャンプーの淡い香りを嗅ぎながら、少しずつ確実に、背徳感が植えつけられているのに気づく。郷田は重いものを担わされながらも、目の前の体に酔っている。甘い香りに、柔らかい感触に、そして一瞬先への期待感に囚われている。やがて背徳感すら、甘美な一瞬を彩るスパイスへと変わる。
 郷田は相原を貫く。長い間夢を見続け、授業中に勃起するという恥辱に耐え続けた可哀想な下半身が、その夢を叶える。郷田は激しく息を切らしながら、幸せの絶頂にいる。
「水野……」
 相原はそう呟くと、一筋の涙を流す。郷田は気づかないふりをして、相原にキスをする。


 それから三日間、郷田と相原は抱きあいつづけた。互いの体を貪りあい、寝て、起きるとシャワーを浴び、また抱きあいはじめる。外には一度も出なかったし、冷蔵庫の中にあるものを生のまま齧る以外には何も口にしなかった。さすがにヤバイんじゃないかと郷田が思い、それを何度か言おうとしたが、すぐ隣にいる相原を見ると言葉は消え去った。この魔法のような時間を終わりにしてしまったら二度と触れることができないかもしれない裸体が、判断力を麻痺させた。触れあっているときにはこれで最後にしようと思っているのだが、離れるともう一度だけと求めてしまう。次第に自暴自棄のような気持ちになる。どこまでも落ちていこう。どうなったってかまわない。全ての煩わしさを思考の外に追いやって、愛へひた走る自分の姿に酔っていた。それは郷田があんなにも嫌がっていた、恋する男の姿に他ならなかった。そして自分だけではなく、相原と共に堕落しているという事実が、その馬鹿げたイメージを輝かせていた。
 結局、郷田の親が不審に思って学校に連絡したことをきっかけに、巡り巡ってふたりの魔法は解かれ、愛を紡ぎあった時間のことは皆に知れ渡ることとなった。
 噂は具体的な言葉で発信されたわけではなく、何かを質問されたときの相原の伏し目や、郷田への熱いまなざしによって周りから塗り固められていった。噂の半分は正しかったけれど、半分は間違っていた。たとえば郷田が雨の中、相原の家の二階まで壁を登り、窓から侵入したのだという荒唐無稽なエピソードすら付加され、しかし郷田もその間違った噂を積極的に訂正しようとはしなかった。そんなことよりも、あれを最後にもう幸せな時間はやってこないのだろうかということの方が、よほど気がかりだった。相原は今、水野のことをどう思っているのだろう。俺のことをどう思っているのだろう。そして、あの幸せな時間のことを、どう捉えているのだろう。
 郷田は一ヶ月の間ひとりで悩みつづけた。噂は水野にも知られることとなり、相原は頭を下げて謝ったのだという。たったひとときの過ちでした、あなたのことがまだ好きです、どうか許してください、見捨てないで。もちろんそれすら噂話で、郷田は直接見たわけでもなければ、相原から話を聞いたわけでもない。でも、もし真実だとしたら……。
 ある日、郷田は廊下で相原とすれ違う。目を合わせることができずにいると、相原は小走りで郷田に近づいてきて、耳元で囁く。今度はさ、郷田の家に行ってもいい?
 郷田には相原の気持ちがまるで理解できなかった。悩んでいた自分を馬鹿にされたような気すらした。でも、郷田は相原の描いた道筋から逸れることができない。相原は自分よりもずっと自由でいて、対する自分は縛りつけられているけれど、それをどうすることもできない。
 他人の描いた物語に、作為に、一度身を委ねてしまった報いだった。もはや相原の一言によって、郷田の物語は自在に書き換わる。


 相原から抜け出せない郷田に、黒川が忠告する。
「あんまり調子に乗るんじゃねぇぞ」
 学校の廊下で急に呼び止められたので反射的に立ち止まってしまったが、郷田からすれば被害者は自分だった。だいたい相原に対して自分に正直になれと忠告したのはあんたじゃないか、という気持ちもあった。だから郷田は、黒川の言葉を軽く流そうとしたのだった。
「気をつけるよ」
 それだけ言うと踵を返す。しかし、黒川は郷田の前に回りこんできて言った。
「ほんとにわかってんの?」
 その好戦的な姿勢に、郷田は苛立つ。
「何が言いたいの?」
「調子に乗って相原のこと抱き続けてんじゃねぇぞって言ってんだよ」黒川はまわりに聞こえないよう小声で凄む。
「そんな単純な問題じゃねぇんだよ」
 今の複雑な関係を説明するのが面倒だったので、話にケリをつけようとする。しかし、黒川は納得しなかった。
「んなことはわかってるよ。わかった上で調子に乗んなって言ってんの」
「わかってんなら教えてくれよ」郷田は言う。「俺はどうすりゃいいわけ?」
「相原に会わなきゃいいんだよ。それでどんだけひどい思いをしたってな」
 どこまで想像できているのだろうと、郷田は少し怖くなる。相原といい黒川といい、どこまでも先回りしてくる。郷田が先回りされていたことに気づくのは全てが終わった後のことだ。どうやら俺とは違う目線でものを見ているらしい、と郷田は思う。それとも俺が馬鹿なだけなのか?
「……黒川は俺に傷つけって言いたいわけ?」
「残酷なことはやめろって言いたいだけだ。愛は麻薬だぜ? おまえにはわからないかもしれないけど、愛されてるってのはとんでもない快感なんだよ」
 愛されるのは快感? そんなのあたりまえだろうと郷田は思う。だからこそ人は愛し愛されるのだ。もし相原が自分のことを愛してくれたとしたら、そんなに幸せなことはない。
 黒川は話を続ける。
「問題は、おまえが与えてんのが無償の愛だってことだ。愛さなくても愛されるなんて、そんな楽なことはないだろう? 相原はそのうち中毒になるぜ」
「なるならなればいいさ。俺がいなきゃいられなくなるんなら、そんなに幸せなことはないよ」
「なんにもわかっちゃいないんだな」黒川は馬鹿にしたように笑う。「おまえに溺れるんじゃない、愛されることに溺れんだ。おまえ、その調子で一生愛してやれんの? 無理だろ? そしたら相原はどうなんの?」
「意味わかんねぇよ」郷田は黒川を突き飛ばす。「愛されることに溺れる? なにそれ、哲学かなんか? ってか俺はそれ聞いて、いったいどうすりゃいいわけ? だいたい何でおまえが相原のことでムキになってんの?」
「……ムキになってんのはお前だろ」
 黒川は立ち上がって服の埃を払う。小さく深呼吸すると、郷田の目を見据え、悪意を込めた口調で言う。
「もういいよ。おまえ見てたらむかついてきたから、突っかかっちまった。悪かった、気にすんな」
 そのときの話の内容はすぐに忘れてしまった。郷田の記憶に残ったのは黒川に対する苛立ちだけだった。
 でもあるとき、郷田が相原と抱き合っていると、急に黒川が何を言いたかったのかを理解する瞬間がやってきたのだった。夕方のラブホテルでのことだ。
「私、郷田を好きにはならないよ」相原は郷田の腕の中で、まるで自分に言い聞かせるように呟く。
「じゃあ、なんでこうして会ってくれんの?」郷田が言うと、相原は悲しそうな顔をして言うのだった。
「なんでだろうね。ダメだよね、こんなんじゃ」
 相原は誰に向けてでもなく、ゆっくりと続ける。
 郷田みたいにね、自分の気持ちを正直に伝えてくれると、すごくうれしくなる。どんなに辛いときも、どんなに寂しいときも、郷田みたいに私のことを好きでいてくれる人がいるんだって思うだけで、なんだか救われたような気持ちになるんだ。私はね、たぶん郷田のことを好きになるのが怖いの。好きになって、それでこの関係性が変わっちゃって、いつか郷田が私のことを、今みたいに愛してくれなくなるんじゃないかって、恐れてる。
 郷田は何かを言おうとしたのだが、相原はそれを遮って言う。わかってるよ、たぶん郷田はそんなことないって言ってくれるんだよね。私が郷田のことを好きになっても、俺は相原のことがずっと好きだよって、言ってくれるんだよね。それが信じられないわけじゃないよ。そう信じてるし、信じたい。でもね……もしそれが本当だとしても、私は今のほうが幸せなんじゃないかって気がする。ひどいこと言ってるって思うかもしれないけど、でも私は、こうしてるのが好き。今の関係性のままで、こうしてるのが、すごく好きなの。
 だから……いいよね?
 相原のことが嫌いになれたら、どんなに楽だろうと郷田は思う。このどうしようもない状況から抜け出すことができたら、何ひとつ苦しむことはないのに。しかしそれはあり得ない仮定の話に過ぎなかった。
 郷田は相原が好きだった。それは自分ではコントロール出来ない、どこからともなくやってきて郷田を縛りつけた、謎の感情なのだった。人はそれを愛と呼ぶ。
 郷田は、この感情を何と呼ぶべきかと考える。やはり呪いだろうか。

アイドルロジック-1

 水野は貯水池のことを思い出している。
 立ち入りが禁じられていたので、家の近くだったにも関わらず、貯水池を取り囲む林は未知の空間だった。幼い水野は外周をまわる。危険な生き物が潜んでいるわけでも、不穏な空気が漂っているわけでもないのに、そこに理由のない不安を感じていた。
 夜空を眺める。それはたいてい会社からの帰り道のことで、うまくいかなかった一日を思い返して少しだけ落ち込んでいたりする。季節の変わり目で昼間は暖かかったのに、夜になると風が冷たい。今夜は月がきれいだから、明日はきっと晴れるのだろう。
 やがて脳裏に、貯水池を取り囲む林の風景が浮かび上がってくる。かつて何度か忍び込んだことがある。あたりは暗かった。木々の間から月明かりが照らしていた。どのような場所だったか、はっきりとは覚えていない。でも水野は記憶の中にあるその林を、走ることができる。
 木々の形状は焦点を結ばない。土の色や、そこに生えていたであろう草の感触も定まっていない。でも感情だけは、まざまざと蘇ってくる。狭い歩幅を懸命に重ね、息を切らしながら走っていると、やがて貯水池が姿を現す。木々のざわめきなのか、遠くを走る車の音なのか、正体の掴めない雑音があたりを満たす。
 そして水野は、貯水池のほとりに相原の姿を見る。知らない誰かと一緒にいて、ふたりはキスをしている。ちょうど映画に出てくるカップルのように。いつのまにか高校生の姿になっている水野は、ふたりのことを見つめている。月明かりに照らされた、記憶の中の相原が顔を上げる。目が合うと、いたずらっぽい笑みを浮かべているように見える。
 月を見ると、いつも相原のことを思い出す。
 はじめに浮かんでくるのは、ぼやけた表情だ。輪郭ははっきりしないけれど、相原が身にまとっていた雰囲気は正確に思い出せる。かつての水野自身の幸せな気持ちや、辛い気持ちも同時にやってくる。声も思い出すことができるけれど、具体的な言葉がやってくるまではまだ時間がかかる。
 やがていくつかの感触がまざまざと蘇る。人差し指の先の暖かさ、触れる手のひら、鼻先と上唇の圧迫感、そして舌の表面。しばらくすると、あのときの体の感触と体温が、体の奥から引き出される。
 固いシーツと、やわらかな肉体。
 裸で抱き合いながら、体が接触するラインに熱を感じていた。相原はいつも背中を向けていて、水野は後ろから抱きしめているのだった。ひどく怒っているときも、背中だけは水野に委ねてくれていた。
 水野は後ろから謝る。でも、相原はそれを受け入れない。
「なんで私が怒ってるかわかる?」
「わかってるよ」水野が答える。
「わかってるなら、何度も同じことするわけないでしょ?」相原は悲しそうに声を震わせる。
「本当にごめん」
 水野はいつも謝ることしかできない。すると相原は言うのだった。謝らないでよ、それじゃ私が許さなきゃいけないみたいじゃない。
 具体的な内容は覚えていない。たぶんいつだってくだらない、ちょっとした諍いに過ぎなかったのだろう。水野は高校生の頃の思い出を辿る。背中を預けながら、それ以外の全てをシャットアウトして悲しみに沈む相原のことを少しでも解ろうと、ゆっくり記憶をなぞっていく。未だに読み解けない感情が、頭の隅で置き去りにされている。
「謝らないでよ、それじゃ私が許さなきゃいけないみたいじゃない」
 相原に言われると、水野は何も言えなくなってしまう。だからより強く、背中を抱きしめる。
「……気を使わせないでよ。悲しいのは私の方なんだよ。悲しい気持ちなんだから、悲しいままにさせておいてよ」
 相原の声が頭の中で、徐々に鮮明になっていく。
 記憶とは脳を駆けめぐる電気信号なのだという。水野は夜空の星にイメージを借りる。いつか見た脳の神経細胞の写真と、銀河の写真を重ね合わせている。地球に星明かりが届くように、星と星も光を交換していることを思う。
 街はビルの光が眩しくて、星の明かりを隠してしまう。だから夜空を眺めるのは、会社帰り、駅から離れてからのことだ。月がきれいな日の翌日は晴れると教えてくれたのは相原で、あの頃の水野は夜空を見ると、相原も同じ月を見ているかもと、そんなことを考えたのだった。
 会社に通うのは週に5日で、休みの2日は家で休む。気持ちが弾む帰り道もあれば、落ち込んでいる帰り道もある。果たさなければならない責任を、確実に果たしている自分が好きだ。まわりの人間より頑張っている優越感、評価されている優越感、自分がいなければ全てが立ちいかなくなってしまう、その状況の中に身を置いていることを誇りに思っている。でも、いつもうまくいくとは限らない。ときどき有給を取ったりもする。仕事をしている自分が好きなのに、出社する日が4日になると、なぜか、それだけで気分が軽くなる。
 落ち込んでいるときは上を向いたほうがいいと教えてくれたのは相原だったか、あるいは別の人だったか、はっきり覚えてないけれど、見上げるとそこにある月は、記憶を引き出す呼び水になる。
 でも今の相原が同じ月を見ているという想像は、いつしかうまく働かなくなっている。月はまるで空に開いた穴のように、静かに浮かんでいる。


 高校生の頃の水野は決して目立つ人間ではなかったが、相原と付きあっていたせいで、いつも数々の噂に晒されていた。真実が脚色されたものもあれば、荒唐無稽なものもあった。水野は幾度となく傷つけられたけれど、それでも構わないと思えるくらいに相原のことが好きだった。あるいは性欲の虜になっていただけかもしれないが、今となってはよくわからない。
 水野と相原は、出会った次の日にはもう付きあっていて、彼女に言わせれば一目惚れだったらしい。友達の家に泊まりで遊びに行ったとき、黒川という友人に連れられてきていたのが相原だった。恋愛に関わるトラブルの多い子だということは知っていたけれど、実際に話をすると、そんな前情報などすぐに忘れさせてくれるくらいに可愛かった。仕草のひとつひとつに、水野は瞬く間に惹きつけられていった。
 相原と黒川は幼なじみらしく、みんなで缶ビールを飲んでくだらない話をしているときにも、親しげな様子が見てとれた。水野はその関係性を羨ましく思いながら、ふたりが会話する様子を眺めていたのだった。
 黒川は、学校の近くにある喫茶店で働く年上の女性と付きあっているようだった。水野も何度か見たことがある。耳には控えめなピアスが輝き、わずかな頬の動きで多彩な表情を作りあげる、高校生では絶対に身につけることができない類の色気を持っている女性だ。
 黒川からその話を聞いて、水野は不思議に思った。てっきり相原と付きあっていると思い込んでいたからだ。黒川は笑いながら言った。そういうんじゃないよ、こいつは妹みたいなもんだからさ。相原のことを一番よくわかってるのが俺だって自負はあるけど、それは付きあうとかとはまた別の話だよ。
 その日、水野は相原の隣に座っていた。はじめから相原の好意のようなものをなんとなく感じ取ってはいたのだが、そのことをいまいち信じ切れずにいた。でも相原の右手が水野に左手に触れ、はじめは偶然の接触に過ぎなかったが、次第に指先と指先が絡みだし、やがて互いに握りあう頃には、もうそれ以外のことは考えられなくなっていた。どちらが先に確信的な力を込めたのかはわからない。あるいは、その『どちらともなく』という状態を保つことで、罪を共有しようとしていたのかもしれない。他のたくさんの友人に隠れて手と手を触れ合わせるのはとても刺激的な行為で、水野は相原自身の魅力よりむしろ、その刺激に惹かれていた。
 相原がコンビニでお酒を買ってくると言い残し、表に出る。二、三分してから水野が後を追うと、彼女は玄関を出てすぐのところで待っていて、目と目があった次の瞬間、ふたりは貪りあうようにキスをする。
「どうして?」水野が尋ねる。その問いには答えず、相原は言う。
「私のこと、知ってる?」
 水野が頷くと、相原はまるで呪いのような言葉を口にする。
「それでも、ずっと好きでいてくれる?」
 買い物を終えて部屋に戻ってきたふたりは、新しい距離を獲得している。握りあう手や触れあう肩には、ずっと確信的な力がこもっている。数々の視点がふたりを観察する。興味、妬み、羨望、その他様々な感情が、ふたりから情報を引き出そうとする。やがて情報は噂として拡散するのだろう。だがそのときの水野は、先のこと考えられるほど冷静ではなかった。
 やがてみんなが寝静まると、ふたりはこっそりとじゃれあいだす。シャツの下に潜り込む水野の手の冷たさに、相原はくすぐったがりながら身をよじる。胸をまさぐる手に導かれて相原の声が漏れ、その瞬間、冗談が冗談ではなくなる。懸命に息を殺す相原はやがて、右手を水野のズボンへと伸ばす。布の上から優しく撫でると相原は、大きくなってるね、と耳元で囁く。それを聞いて水野は、いつかどこかで見た映像の中にいるような気分になる。互いの声が、息づかいが、ふたりの小さな空間を急速に温めてゆく。
 やがて相原は水野にキスをすると、体ごと毛布の中に潜り込み、水野のズボンを下ろす。そのまましばらく時間が過ぎる。
 水野が少し身をよじると、やがてその下半身が相原の両手によって優しく包まれるのを感じる。相原は何かを確かめるように、ゆっくりと撫でる。水野からは相原が見えず、視界には薄暗い天井しか映らない。その広い闇を、水野は急に背負わされたような気持ちになる。
 相原は口を使う。水野は気持ちよさに身を委ねながら、同時に部屋の静けさを確認し、闇の中に視線が存在しないかを観察する。見られていなければいいと思いながらも、そこまで深刻な問題として捉えてはいない。このとき誰かに見られていたかもしれないという可能性が、ことあるごとに頭をよぎるようになるなどとは、露ほども思っていない。
 しばらくすると相原は毛布から顔を出す。いたずらっぽい笑顔を見せると、そのまま水野に跨って腰を沈める。あるはずの下着はそこにない。
「いつの間に?」水野が尋ねる。
「さっき舐めてるときに脱いじゃった」そう言って相原はぺろりと舌を出す。


 そうしてふたりは付きあうことになったのだが、相原は普通の女の子とは違った感覚を持っていた。他の男と寝ては、そのことを悪びれもせず水野に話すのだ。相原にとって恋愛とセックスはきれいに分かれていて、そこに関連性は存在しないようだった。
 どうして他の男と寝るのだろう。水野は高校生の頃、ずっと疑問を抱えていた。直接尋ねてみたこともあるけれど、明快な答えは返ってこなかった。
「やきもち焼いてるの?」相原は少し嬉しそうな顔をして尋ね返す。
「怒ってるんだよ」水野はできるだけ不機嫌な感情を顕にしようとする。
「怒ってくれるんだ」
「くれるんだ、じゃなくて、どうしてって訊いてるんだよ。そもそもどういう流れでそういうことになっちゃうわけ? 誘うの? それとも誘われるの?」
「誘われる」相原は俯いて言う。
「どうやって?」
「そろそろ行こうか、って」
「で、ついてくの?」
「ついてく」
「なんでだよ、断ろうとか思わないの?」水野は問いつめるが、相原はうーん、と考え込んでしまう。
「俺のこととか思い出さないの?」と水野。
「それとこれとは別だから」と相原。
「俺のこと好きじゃないの?」
「好きだよ。いつも言ってるじゃん」
「じゃあなんで?」
「なんでかはわかんないんだけど」相原は少しだけ悩んでから言う。「終わったあとはちゃんと後悔するんだよ。やらなければよかったって」
 ちゃんと後悔する、という表現が日本語として正しいのかどうなのか、水野はわからなくなる。後悔するくらいならやらなきゃいいのにと思いながら、同時に何を言っても無駄なのだろうと知っていた。きっと相原は誘われるより前に、自覚のないまま誘っているのだ。
 たとえばある日、朝のホームルームが終わったあと、杉山が水野の席に近づいてくる。いつも黒く日に焼けているサッカー部の男だ。
「おまえの彼女、やべぇな」
 何のことかと水野が尋ねると、杉山はニヤニヤと笑みを浮かべる。
「昨日のプールの授業が終わったあとのことなんだけどさ、俺、先生に頼まれて更衣室の鍵を閉めに行ったんだ」
「それで?」水野はなるべく平静を装って尋ねる。
「相原がさ、更衣室にいたんだよ。まだ水着だったから、まずいなと思って更衣室を出ようとしたんだ。普通そうするだろ? でもさ、すぐに終わるからそこで待っててって言うわけ。向こうがだぜ。で、そう言われたら仕方ねぇから待つじゃんか。そしたら着替えはじめたんだよ。見せつけるみたいにさ」
 自分の正義を主張するかのように、杉山はそこそこ大きな声で喋る。不謹慎なのは相原の方なんだ、とでも言いたげな口調に、水野は腹が立つ。そんなことお構いなしに、杉山は続ける。
「もちろん全裸ってわけじゃねぇけど、タオルに体を包んで着替えはじめたわけ。あいつ胸でかいんだな。なぁ、相原っていったい何がしたいんだよ」
「俺に訊かれても困るよ」水野は言う。
 杉山はまるでその言葉が免罪符であるかのように、ほんの少しだが確実に、態度を変える。
「ったく、ビッチだな。あんなんじゃ誰かにやられても文句言えないぜ?」
 本当は『誰か』ではなく『俺』と言いたいんだろうと水野は思う。思うけれど、口には出さない。このままいけば、そのうち俺は杉山の彼女にひどく恨まれることになるかもしれないと、水野はとても憂鬱な気持ちになる。
「なんだかんだ、おまえも好きなんだろ、そういうの」杉山がニヤリと笑う。歯に青海苔がついている。
 朝から何を食ってきやがったんだこいつは。むかついた水野は、そのめちゃめちゃカッコ悪い事実を大声で叩きつけてやろうと考えるが、それより前に郷田がやってきて、杉山の机を力強く叩く。教室が静まる。
「好きになっちまったもんは仕方ねぇだろ」郷田がぼそりと言う。
 ガタイがいいからなのだろうか、その言葉はまるで世界共通の定理のように響く。よくよく考えたら安っぽいセリフなのにも関わらず、杉山はすくみあがり、水野もまた少し動揺してしまう。教室が俄にざわめきだしたのは、その言葉と囁かれている噂話を並べて見たときに、まるでしつらえたような精度でピタリと重なるからなのだろう。
 郷田は、かつて相原とのセックスに溺れて三日三晩やりまくり、家に帰らなかったことで問題を起こした、どうしようもない男なのだ。


 付きあっていた水野から見ると、相原もまたどうしようもない人間だった。彼女について真実通りの噂が行き交っているとしたら、周りから数々の恨みを買っていただろう。
 しかしそうではなかった。他の男と寝たという事実や、そのときに何を思っていたのかということを相原が誠実に話そうとするのはあくまで水野の前だけでのことだったし、噂しか知らない他の女の子たちの間では、なぜか情報が奇妙に変形しているのだった。
 たとえば杉山の更衣室でのエピソードは、彼がこっそりと忍び込んで覗き見をしたという話に変わってしまう。一方で郷田とのエピソードは『本気で愛しあっていた』という純粋な恋物語に変質する。性欲の匂いを微塵も感じない、非現実的な物語だ。そして、ふたりの愛がやがて終わりを迎えると、失意の底にいた相原を救い出したのが水野ということになっているらしい。相原が郷田と寝ていたとき、既に水野とも付き合っていたという事実は、なぜか既に歴史から消え去っている。
 不思議なのは、情報を変形させるために相原が積極的に行動していないところだった。もちろん相原が自分に都合のいい情報を積極的に流したとしたら、そんなことはすぐにバレるものだし、その行為自体が相原への不信感に繋がり、結果、彼女は教室の隅に追いやられてしまっただろう。
 そもそも、男と女が閉じこもった密室で何が起こったかなんて、誰にも知ることはできない。当然のように複数の真実が想像されるし、その中から人々が選択したものが真実になる。このとき得てして選ばれるのは、物語として最も面白いものなのだということを水野は知る。究極の大恋愛を経て失意の底に沈み、水野によって救われた相原という物語がとても魅力的な反面、そんな彼女が男を誘惑するのは物語として座りが悪い。一方でサッカー部のエース杉山には、相原に誘惑される物語より、実は変態的な趣味があったという物語のほうが似合うということだ。
 相原自身はそのことをどう捉えているのだろうと疑問に思った水野は、ふたりきりになると相原に尋ねたのだった。たとえば杉山とのことについて。
「そんなの昔の話じゃん」相原は答える。
 三ヶ月前って昔なんだろうか。水野が納得のいかない様子でいると、相原は立て続けに言う。
「そんな話、気にしないでよ」
「気にしないってわけにはいかないだろ」水野は不満を訴える。
「ねぇ水野、そんなのって本当になんでもないことなんだよ。だいたい私、杉山のことなんか好きでもなんでもないし」
「じゃあ、なんでそんなことするの?」
「だから、からかってみただけだってば」
 相原は本心から言っているように見える。水野がしばらく黙っていると、相原はゆっくりと続ける。
「私、水野のこと、すごく好きなんだよ。だから細かいことを気にする必要なんかないし、気にしてほしくない。愛してる私を信じてほしい。わかってよ」
「わかってるよ」
 水野が言うや否や、相原は言葉を被せてくる。
「わかってない。全然わかってない! 愛してるって苦しいんだよ。ひとりでいるといつも思い出しちゃうってことなんだよ。いっそ出会わなければよかったって思うこともあるくらいなんだよ。そういう気持ち、想像したことある?」相原は水野の目を真摯に見つめる。「私は、あなたの100倍はあなたのこと考えてる。水野のことを思って苦しんでる。それだけじゃダメなの? それじゃ足りないの?」
「違う」水野は強い口調で相原を黙らせる。「愛してくれてるってことは、わかってるつもりなんだ。でも現実に不都合がおきてる。君と寝た男の彼女は、みんな君じゃなくて俺を恨むんだ」
「私以外の子の、誰に嫌われたって構わないでしょ?」相原はキョトンとした顔で言う。
「でも、画鋲は痛い」
「画鋲?」
「画鋲だよ」
「模造紙をとめたりするあれ?」
「嫌がらせの代名詞のあれ。靴の中に入ってるんだ毎日毎日」
 杉山の彼女は、悲劇のヒロインという役回りを上手に、そしてたぶん気持ちよく演じているが、それは本心ではないのだろうと思う。言葉と気持ちが分裂し、その分裂に悩み、耐え切れなくなると、ネガティブな思いは固まって画鋲になる。
「誰がそんなことするの?」相原が尋ねる。
「知らないよ」水野は推理を心の中に押し留める。
 相原は少し考えこむと、何かを決心したように強い口調で言う。
「大丈夫だよ、何があったって、私が水野を守る。私はいつも、水野の味方だから」
 じゃなくてそれより前に反省すべきことが、と言おうとして言えない水野は既に相原の上目遣いに射ぬかれて動けなくなっている。そして同時に、幸せを感じている。愛されている実感としか言えないような感情が身体中を満たし、かわいいなぁ、水野は思う。さらに口にしてしまう。かわいいなぁ。その言葉を聞きとめて不敵な笑みを浮かべる相原だったが…


 水野の記憶が定まらない。不敵な笑みは愛情たっぷりの笑みに書き換わり、でもやはり不敵な笑みだったような気もして、記憶を何度も書き換えているうちに、その表情はやがてひどくぼやけていってしまう。
 どちらが真実なのだろう。たとえば会社からの帰り道で、水野は考える。あの瞬間を捉えたビデオがもし存在するとしたら、そこにはどんな表情が記録されているだろう。だが相原の表情が水野の記憶の中にしかない以上、それを確かめるのはもはや不可能だ。
 考え方を変えれば、水野が信じた表情こそが真実であるとさえ言える。愛のほほえみと不敵な笑み、どちらか選びたい方を選べばいいのだ。でも水野は選べないでいる。
 夜空を見上げて水野は、夜の貯水池のほとりに、相原が立っている姿を思う。ときに愛のほほえみを、ときに不敵な笑みを浮かべている。
 いつだったか、社会人になってから実家に帰って家族で話をしているとき、その貯水池の話をしたのだった。幼い頃に恐ろしさを感じていたことなどを水野が話すと、貯水池は、水野が中学生の頃に埋め立てられ、林も切り開かれてしまったはずだと親が言った。それが真実ならば、相原がそこにいたはずはなかった。
 だがそれは、捏造というにはあまりにはっきりした記憶だった。水野は混乱する。他にもいくつかあるぼんやりとした記憶の全てに対して、自信がなくなってしまう。校門で待ち合わせて一緒に帰ったこと、徒歩の相原にあわせて自転車をひいて歩いたこと、雨の中ひとつの傘で、となりの相原が濡れないように気遣ったこと……雨といえば、相原の家の近くの駐車場で、傘をさしながらパジャマの上にコートを羽織った相原と、座り込んで話をしたのはいつのことだったろう。具体的な会話は思い出せない。どうしてそんな状況になったのかもまるで覚えていない。不安になった水野は、冷静に記憶を辿っていく。そうすると、少しずつ細かい感触が蘇ってくる。傘の柄を握る手が雨に濡れていたこと、膝が痛くなって何度か立ったり座ったりを繰り返したこと、お互いの傘が何度かぶつかったこと、それから相原のシャンプーの香りをとても心地良く思ったこと。
 でも今、その香りを思い出すことはできない。香りは記憶を呼び覚ますのに、どうして記憶から香りを引き出すことができないのだろうと、水野は不思議に思う。


 水野は相原とつきあいながら、どこか負い目を感じていた。たとえば休日に街で買い物をしているとき。
 相原の親は裕福だった。地元の中堅企業の社長で、工場か何かを経営していたらしい。かといって相原の金遣いが荒いというわけではないのだが、水野はときどき自分との感覚の違いを感じたのだった。
 水野が育った家庭は裕福ではなかったが、貧乏でもなかった。お金がないことで苦労した覚えはないので、実際の経済状況は水野の人格に影響を及ぼしてはいない。むしろ水野にとって大きな問題だったのは、親がこの裕福ではなく貧乏でもないという状態のために努力している、という事実だった。
 たとえばちょっとした小物を買うとき、あるいは喫茶店でお茶を飲むとき、財布からお金を払う。この瞬間、相原は痛みを感じていないが、水野は痛みを感じている。とても些細な痛みに過ぎないのだけれど、それは『みじめさ』としか呼びようのない感情として蓄積されてゆく。
 この『みじめさ』の蓄積はいつまでも消えることがない。大人になり、自分で稼ぐようになった今でも、お金を払うという行為は痛みを伴っている。だから無駄遣いを控えるかというとそれはむしろ逆で、『みじめさ』を消し去りたいという思いが水野にお金を使わせるのだった。
 お腹をすかせているわけでもないのに、お金のことで『みじめさ』を感じるなんてとても馬鹿馬鹿しいことだと、水野はあのときから思っていた。でも相原と街を歩くたびに『みじめさ』は確実に降り積もってゆく。やがて、この感情を解消しなければならないと思うようになる。それも、お金を得る以外の手段で(お金がないからみじめなのだと短絡的に思いたくないからだ)。たとえば何らかの成功を収めて有名になれば、この『みじめさ』は消えてなくなるかもしれないと考える。きっと羨望のまなざしは、小さなネガティブたちをかき消してくれることだろう。
 でも、自分の中にある『みじめさ』を直視したくない水野は、そういった思考をまるごとスキップして、相原に結論だけを伝える。
「有名になりたいんだ」
 具体的な言葉になると、話はよくある退屈な夢物語に変換されてしまう。しかし言ったことに嘘がない以上、うまく取り消す方法は見つからない。
「そっか」と言って、相原は上の空でいるように見えた。実際には何を考えていたのだろうと、水野は思い返す。より深い言葉の裏側に考えを巡らせていたか、まるで興味がなかったのかのどちらかだろうとは思うのだが、今となっては何もわからない。
「相原は、夢とかある?」水野は尋ねてみる。
「夢か……」相原は小さく呟く。「夢っていうのとはちょっと違うかもしれないけど、何でもいいから目標は欲しいな」
「目標?」
「うん。少し背伸びをすれば叶うような目標が、いつもあればいいなって思う。目標を達成して、私やったじゃんって気持ちになって、しばらくしたら次の目標が自然とできて、っていう毎日が続いてほしい」
「意外に堅実なんだね」水野が言うと、相原は慌てた素振りで訂正する。
「違うよ? 目標っていっても、そんなたいしたものじゃないの。春物のスカートを買いたいとか、部屋の模様替えをしたいとか、そういうのでいいんだ」
「浮気相手を奥さんと別れさせたいとか?」
 水野はふざけて言ったのだが、相原は頷く。
「たまには、そういう刺激的なのも必要かもしれないね。何にしてもさ、自分の人生に飽きちゃうのが一番嫌だから」
 水野が相原とのことを黒川に相談したときは、もう少し直接的な会話ができた。誰と話していても無意識のうちに虚勢を張ってしまう水野にとって、黒川は自然体で接することのできる数少ない相手だったのだ。
 親が離婚して、母親と暮らしている黒川はとても貧乏で、しかし水野が常日頃感じているような『みじめさ』とは無縁のように見えた。成績が良いわけでもなく、天性の勘のようなもので運動神経はいいけれども部活で本格的にやっているような人には敵わない、そんな黒川が水野の目から見ると、誰より一番自由に思えた。その自由さが幾人もの女の子を惹きつけるように、水野もまた魅力を感じていた。
「相原の家は金持ちなんだからさ、おごってもらえばいいさ」黒川は言う。
「そういうわけにもいかないよ」水野は言葉を選びつつ答える。「男として、なんていうか……プライドが傷つくというか」
「プライドって、おまえも相原も親の金を使ってるわけだろ? 自分のプライドに話を結びつけるのはおかしくない?」
「いや、そうなんだけどさ。なんていうか、カッコ悪いじゃん、お金払ってもらうとかさ」
「おまえは金持ちがカッコイイと思ってるわけ?」
「そういうんじゃねぇよ……」
「じゃあ気にすんな」黒川は、はっきりと言い切る。「相原は金持ちだから、ときどきおまえに金を払う。その分、おまえには相原に与えられるもんがあるかもしれない。そしたら、それを与えりゃいいさ」
「……俺が相原に与えられるものって何なんだろう」水野が言うと、黒川は笑う。
「知らねぇよ。そんなもん自分で考えろ」
 水野がそれを聞いて困った顔をしていると、黒川は少しだけ考え込む。そして言う。
「たぶんだけどさ、あいつは愛されることに飢えてんだと思うんだよね」
「愛って何だよ」水野は訊く。
「俺もよくわかんねぇけどさ、うれしいときに一緒にうれしいと思うとか、悲しいときに一緒に悲しむとか、そういうのの積み重ねだったりするんじゃねぇの? そんだけでもさ、おまえがいる価値ってあると思うぜ。少なくとも、あいつにとってはさ」
 黒川はそう言うと恥ずかしそうに笑った。
 水野は思う。あの頃の黒川に今の自分が出会ったら、きっとただの若い高校生だと、笑ってしまうことだろう。可愛い奴だとすら感じるだろう。でも今になっても水野は、黒川をどこか尊敬していて、黒川のようになりたいとすら思っている。たぶん記憶の中で美化されているだけなのだと思うけれど、そう信じたくない気持ちもある。
 記憶というのは不思議なもので、若い頃に感じた心の動きの、その大きさを補正することなく、そのままに保存してしまう。黒川の言葉も、相原の視線も、それから辛いできごとの辛さも、いくら水野が大人になって、どんなに成長したとしても、変わることなく思い出されるのだ。
 今の水野は、それなりに恵まれた職場で、きちんと仕事をして、きちんと給料を稼いでいるから、お金に困ることはほとんどない。にも関わらず、みじめさを感じる瞬間は変わらずやってくる。おしゃれな家具や、高級なオーディオ機器、服、少し値の張るレストラン……手が届かないものは無数にある。きっとこの感情はもはや、どんなに多くの金を手に入れても、消えることのないものなのだろうと思う。


 水野のところに同級生の坂下から電話がかかってきたことがあった。健康的な可愛らしさを持った、杉山と付き合っている女の子だ。時刻は既に深夜で、家族は既に寝静まっていた。
「話したいことがあるんだけど、会えないかな」坂下はとても言いにくそうに口にする。
 水野は身構える。もしかしたら政治的な行動かもしれない。相原の誘惑を嗅ぎつけ、水野に敵意を向け、画鋲を仕込んだはいいけれど事態に進展は見られず、煮え切らない思いでいたところ、何か勝算のある計画を見出したのだろうか。水野とコンタクトを取ることは、ここからはじまる大きな事件の第一歩なのかもしれない。
「いや、ちょっと、ってか、なんの話?」水野はどう答えていいかわからず、曖昧な返事をした。
 すると、坂下は黙ってしまう。電話の向こうへ耳を澄ますと、すすり泣く声が聞こえる。
 やっかいごとに巻き込まれるのはごめんだった。それが相原絡みであればなおさらだ。関わったが最後、きっと水野が意見を言うより前に女たちの間で事態はどんどん進展し、望みもしない立ち位置を与えられ、気づかないうちに何かの共犯者にされてしまうに違いない。そういったいざこざとは、できるだけ距離をとっておきたかった。水野は相原が好きで、相原とふたりでいる時間が好きで、それだけなのだ。
「とりあえず、泣きやみなよ」水野が言うと、坂下は大きな声で言う。
「同情なんかしないでよ! 何もわかってないくせに、わかったようなふりなんかしないで!」
 わかったようなふりなんかしていない、と水野は思う。電話の向こうから車の走る音が聞こえる。外にいるのだろう。きっと電話を掛ける前から、外でなければ話せないような会話になると、坂下は知っていたのだ。水野はそこに計画性を感じたのだったが、どうあっても泣かれてしまったのでは仕方がない。
「話、聞くよ。今どこにいるの?」
「学校の前の公園」
 家から自転車で十五分の距離だ。水野は、このまま坂下を無視するよりは、行って話を聞いたほうがマシだろうと考える。無視したらきっと自分は加害者になってしまう。それよりは情報を集め、状況を整理して、自分の立ち位置を遠ざけるために努力した方がいい。
 だが実際に出向いてみると、坂下は本当に迷っているように見えた。陰謀などではなく、単に話を聞いてほしいだけのような口ぶりだった。
「どうしたらいいかわからないの」
 坂下はブランコに座って、うつむきながら言った。水野はブランコを取り囲む背の低い鉄パイプに座りながら坂下と向き合い、坂下と同じような場所に視線を落としていた。水銀灯の光が地面に淡い影を作っている。
「何があったの?」水野は何も知らないふりをして言う。
「杉山が……相原さんと寝てた」坂下は本当に辛そうに答える。
 水野は坂下の考えていることがわからない。藁をも掴むような気持ちで相談したのかもしれない。あるいは、真夜中に相談したのだという事実こそが重要であって、やはりこれは何らかの計画にとって必要な手続きなのかもしれない。
「ごめんな。相原にはきつく言っておくよ。もうそういうことはするなって」
「冷静なんだね」坂下は、どこか責めるような口調で言う。
「冷静じゃないよ。どうしたらいいかわからないんだ。そういったことでは何度も喧嘩したし、そのたびに相原は謝る。いつも本気で謝ってると思う。でも繰り返すんだ。俺に何かが足りないのかな?」
「そんなこと知らないよ。知らないけど、嫌なら別れればいいじゃない」
 坂下の言うことは最もだったけれど、水野は相原と別れたいと思っていなかった。何度も傷つけられたけれど、それでも好きだった。坂下にはとても言えないけれど、心のどこかでこうも思っていた。たかだか高校生の頃の、たった一時期の恋愛に過ぎないんだ。何も一生を添い遂げるわけじゃない。相原が可愛くて、ふたりでいるときに幸せなら、それで十分じゃないか。
「私の気持ちはどうなるの?」坂下が言う。「私は彼氏が取られちゃって、すごく辛い思いをしてて、でも悪いことした相原さんにはそれでも愛してくれる水野がいる。そんなの不公平だよ。なんで私ばっかり辛い思いをしなきゃいけないの?」
 それは君の価値観が他の三人とずれているからだ、と水野は思う。でももちろん口にはしない。世間に対して胸を張って主張できるのは、当然坂下の価値観の方だ。
「確かに悪いのは相原だよ。だから坂下は、相原のことを嫌ってもいいし、呪ったっていい。ここに呼びつけて殴ったっていい。相原を殴るのが嫌だったら、代わりに俺を殴ったっていい。気の済むようにしていいよ」
「じゃあ、水野が殴ってよ」
「誰を?」
「相原さんを」
「どうして?」
「だって、私はそんなことしたくない」
 どうしてそんな話になってしまうのかがわからず、水野は少し混乱する。
「でも、相原には苦しんでほしい、って言いたいの?」
「そういうわけじゃないけど……でもこのままじゃ不公平だと思う」
「わかった」
 水野は納得したふりをする。これ以上理屈を聞いても仕方がない。これは感情の問題なのだ。実際に殴らなくても、殴ったことにしてしまえばいい。
「そのかわり、詳しい話を聞かせてよ」水野は言う。「相原が杉山を誘ったの? それとも逆なの」
「よくわかんない」
「その話、杉山には確認した?」
「できるわけないでしょ?」
「じゃあ、誰から聞いたの?」
「……みんな言ってる」俯く坂下。
「ねえ、別に坂下を疑ってるわけじゃないけどさ、それって本当に起こったことなの?」
 坂下は顔を上げようとしない。その様子を見て水野は、杉山は相原と寝ていないんじゃないかと検討づける。とはいえ坂下が嘘をついているわけでもなさそうだ。きっと、真実ではないことが噂として蔓延しているのだろう。
 そもそも水野は話を聞いたときから怪しいと思っていた。そんなことが本当にあったなら、噂が自分の耳に入らないわけがない。それに相原だって、本当に『誰とでも』寝るわけではないのだ。彼女の中にも、彼女なりの一定の基準がある。
「大丈夫、たぶんその噂は本当じゃないよ。相原絡みではたくさんの噂に苦しめられてきたからわかる。杉山は相原と寝てない」
 安心させようと思って言ったのだが、坂下は不満そうな顔をする。
「それってどっちだって一緒じゃん」坂下は呟く。「どっちだって私の辛さは変わんない。水野みたいな鈍感にはわからないかもしれないけどさ」


 急に坂下のことを思い出したのは、職場で同僚の女性から相談を受けたからだった。彼女はとても有能で、強い使命感を持って仕事に臨んでいる。
 もちろん誰もが彼女のように、仕事ができるわけではない。能力の違う人たちが一緒に働いているのだから、ときに誰かの尻拭いをしなければならないときもある、水野自身にその役目が回ってくると、当然嫌な気持ちになる。でもそれをとやかく言っても仕方ないこともわかっている。
 でも彼女は納得できないようだった。周りに比べて能力が高いので、そのような役目を引き受けなければならないことが多かったというのも、納得できない理由のひとつだったのかもしれない。
 相談する彼女の話を聞きながら、水野はこう思った。もしかしたらこの子は、尻拭いをさせた人のことを罰してほしいと思っているのではないか。もちろん口に出してそうは言わないけれど、どこかそのような雰囲気が見てとれた。
 水野は話を聞きながら、半分上の空でいた。強烈な既視感を覚え、それが何だったのかを思い返していたのだった。そういった相談を受けるのは初めてではなかったし、彼女に限った話でもなかった。だからはじめは、職場で起こった昔のことと重ねあわせているのではないだろうかと思っていた。でも帰り道、いつものように空を眺めていると、急に坂下のことを思い出したのだった。
 坂下と彼女の置かれた状況はまるで違うし、重ねあわせて考えるには不適切だろうとはじめは思っていた。でも一度思い出しはじめると、記憶が溢れてくるのを止めることはできなかった。ふたつの出来事の関連性はよくわからないままに、水野はあの後、どんなことがあったのだろうと思いを巡らせる。
 水野は確か、相原に坂下と話したことを伝えたとき、殴られたことにしてくれないだろうかと頼み込んだのだった。
「なんで?」相原は言う。
「それで坂下の気持ちが晴れるならいいじゃないか」
「でも私、杉山となんか寝てないよ」
「知ってるよ。寝たとか寝てないとか、そういう問題じゃないんだ」
 相原は蔑むような目で水野を見る。そして小さな声で呟く。
「ムカつく。なんで水野がそんなこと言うわけ? ありもしない噂を立てられて、私むしろ被害者だよね?」
「そういう噂が立つのには、相原にも責任があるだろ?」
「そういう問題じゃない!」相原は叫ぶ。「ほんとに寝てて、それで恨まれるんだったら別にいいよ。私は私に胸を張れる。でも寝てなんかいなくて、しかも水野に殴られたってなったら、私は何に対して胸を張ればいいの? ただみじめなだけじゃない」
「じゃあ、このまま放っておく? そのあと苦しむのは相原だぜ?」
 相原は捨てられた子犬のような、悲しい目をする。水野は、何か取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれないと気づく。
「ねえ水野、味方になってよ。私が怒ってるときは、一緒に怒ってよ。私が悲しんでるときは、一緒に悲しんでよ。私のこと愛してるんでしょ? だったら……」
 そこまで言うと相原は、涙を一粒こぼした。水野は話の続きを待ったけれど、そこから先に言葉はなかった。
 水野は昔を思い返しながら、胸が締めつけられるような感覚に襲われる。時が戻せるのなら、あのときの相原に別の言葉をかけてあげたいと強く思う。
 でも、そんなことはできるはずもない。
 家に帰ってから、暗い部屋でひとり、相原のことを思い出す。この辛い気持ちをなんとか掻き消そうと、笑顔の記憶を探る。たとえば、誕生日にファンシーな写真立てをもらったときのこと。意外に思った水野に、相原はこう言ったのだった。思い出を飾るみたいなのも、私、いいなって思ってるんだよ。一応ね、女の子だからさ。
 これからどうするべきだろう、と水野は考える。どんな選択をすれば、あとで後悔をせずに済むのだろうか。本当は最善の策を探すべきなのに、そんな気持ちにはどうしてもなれないのだった。後悔したくない気持ちが何よりも優っている。自分は記憶のために生きているのではなく、あくまで未来のために生きているのだと信じたいが、でも実際のところはどうなのだろう。人はいつか死んでしまう。未来などなくなってしまうときがいつかは来る。そう考えると、美しい過去が何よりも大切なのではないかと、そんな気持ちにさらわれるのだった。


 公園で話をしてから、水野と坂下は少しだけ親しくなる。たとえば授業の合間に廊下ですれ違うと他愛もない話をする。相原のことが話題に出ても、坂下に恨んでいるような様子はない。水野に話したことで気が済んだのかもしれないし、あるいは宣言したとおりに殴ってくれたのだと思い込んでいたのかもしれない。
 坂下は(あくまで水野が聞く限りは)相原との一件がなくても杉山に愛想をつかしていたらしく、悪口ばかりを口にする。会うといつもセックスなんだもん、少し声を落としてそう囁く。
「だから、相原さんとのことも、たぶん杉山が悪いと思うんだよね」
「そうかな」水野は相原の話題になると、断定的な物言いを避けてしまう。
「きっとそうだよ。だって相原さんが、杉山みたいな馬鹿を好きになるわけないもん」
 どうやら女の子たちの間では、相原の尻軽さは、愛への誠実さという形で納得されているらしかった。水野は相原のことを、女としての才能を生かせる瞬間を見過ごせないだけなのだと思っているが、それを口に出したりはしなかった。
「でも相原さんって最後にはいつも水野のところに戻ってくるんだよね。そういうのって、素敵だと思う」
「俺が甘いだけだよ」
「謙遜しなくたっていいよ。愛してるんでしょ?」
 そう言われて水野は悪い気がしない。坂下と別れて廊下を歩きながら、水野は知らず知らずのうちに、ひとりにやけているのだった。
 そんな水野を見てか、あるとき黒川が近づいてきて言う。
「坂下さんと仲いいのな」
「ちょっといろいろあったんだ」
 水野が言うのを聞いて、黒川は少し難しい顔をする。
「どうした?」水野が尋ねる。
「いや、これは俺の想像なんだけどさ」黒川は声を潜める。「たぶんあれ、復讐だぜ」
「え?」
「坂下さんがおまえに話しかけるときって、いつも相原が近くにいるときじゃないか?」
「別に相原の悪口を言ってるわけじゃないさ。むしろ坂下さんは、相原と俺のことを応援してくれてるような感じだぜ」
「話の内容なんかどうでもいいんだよ。相原が見るのは、坂下さんとおまえが話してるって事実だけだ。たぶん相原は少しだけ傷つくと思うよ。なんかあの子の行動には作為を感じるんだよね。気のせいかもしれないけど」
「でも、相原とは坂下さんのことじゃ喧嘩してないし、あれだけ自分の気持ちに正直なあいつが何も言ってこないんだから、気にしてないと思うんだけど」
 黒川は力なく笑うと、小さな声で言う。
「ごめん、俺の見方が歪んでるのかもな」
 あのとき俺は何を感じていたのだろうと、水野は思い返そうとする。黒川の言うことにある程度納得していたのかもしれないし、あるいは根拠なく人を疑うことに対して嫌悪感を抱いていたのかもしれない。なんにせよ人の気持ちを外側から推し量ることはできない。黒川の言うように坂下が相原に対して恨みを抱き続けていた可能性だって、もちろんある。
 でも本当の気持ちになんか何の意味もない、と水野は思う。感情は人に伝わらなかったら、なかったことと同じなのだ。
 坂下の感情は坂下のものではないし、相原の感情も相原のものではない。水野の感情だって水野のものではない。判断は常に受け手に委ねられている。たとえば水野が心の底から怒っていたって、誰かに伝わらなければ怒りは存在しない。
 相原はたぶん、生まれた感情が自分の中でただ消えていくことに納得できなかったのだろう。だから感じたことは口にするし、出来る限り行動に移していた。水野はそれを大人げないと思っていた。考えてることが顔に出ちゃう性格だからと、まるで治すことのできない自分の欠点のように言いながら、その言葉に自ら甘える相原を、水野は冷ややかに見ていたのだった。感情を表に出すことで他人が傷つくかどうかくらい、少し考えればわかるはずなのだ。
 でも、今になって水野は思う。生まれては表に出ることなく消えていった俺の感情は、いったいどこに行ってしまったのだろうと。
 普段はそんなことなど忘れている。でもときどき、まるで探しても探しても見つからなかった何かが別のタイミングで不意に目に入るように、水野は昔の自分の感情に出会う。発見というより遭遇といった方が感覚に近い。
 それはマグカップに染みついている。それは針金ハンガーに染みついている。マウスのホイールに、駅の改札の羽根扉に、自転車の車輪の回転がライトを灯す音に染みついている。そして暗い夜空に浮かぶ月に染みついている。
 それは往々にして後悔の記憶だ。たとえば相原の裏切られたような鋭い目のこと。それは水野が相原に別れを突きつけた次の瞬間の表情で、水野は今になっても、その目に責め続けられているような気がしている。言えなかった言葉を、月の明かりが、水野の心の深いところから引き出そうとする。

書くということについて

ここのところ体調が悪くなることが多く
喉が痛かったり、頭が重かったりします。
精神的な症状かもしれないと思うこともありますが
今のところ、仕事に大きな支障はないので、よしとしています。


小説を書きつづけてきました。
正確な自己評価というのは、とても難しいのですが
今回は信頼する友人から、よく書けているとの評をもらったので
きちんとしたものになったのではないかと思っています。


そもそも自分にとって物を書くとは
自分にとって理想の「未来の自分」と、現状を、一致させるための行為です。
このまま仕事を続けて、至ることのできる未来は
どんなに頑張っても、理想には届かないのです。


だからマリオとルイージを同時に操作するようなことを
ずっとしつづけてきました。
マリオ(会社)の方は、結構頑張ってたのです。
でも最近、ルイージ(小説)が追いあげてくると
両方をキープすることが難しくなって
体調の方に無理が来てしまったんだろうなぁと


少々、反省しています。
今回書いたものをどこかに送ったら、結果が出るまで
ちょっと、小説をおやすみし、マリオに専念しようかと。


ーーー


さて、今回は「書く」ことについての話。


今回書いたものは、自分が普段抱えている3つの問題を
フィクションの世界に移し変えたような作品になりました。


まずひとつが「記憶と呪い」という問題です。


人は得てして、記憶によって呪われているものです。
自分も具体的なひとつの「呪い」にかかっていて
それは「評価する側ではなく、される側にならなければいけない」という
強迫観念のようなものです。


具体的に、どんな記憶からくる呪いなのかは割愛します。
自分のこの性質については、いろんな人が褒めてくれるのですが
僕自身にとっては、呪い以外の何物でもありません。


他人を評価する側に回り、否定することができたら
そんなに楽なことはないのです。
でも、自分にはそれができません。
非常に精神的な苦痛を伴う「呪い」です。


そんなエピソードがあるからこそ
自分にとって、記憶と呪いの原理を解明することは
とても重要なことでした。


ふたつ目が「主語のない暴力」という問題です。


社会はときに、誰かを批判するムードに包まれます。
それは「日本」という大きな社会だけではなく
たとえば、会社の「チーム」といった小さな社会においても起こる現象です。


原因は往々にして批判される人にあるのですが
それにしても、そういった暴力の持つ「無神経さ」には
社会人生活を送る中で、辟易としていました。


それにしても、批判の何が気に入らないのだろう、というのは
自分自身でも不思議でした。
もしかすると、その暴力には主語がないからではないか
暴力を振るうものとして果たすべき責任が、放棄されているからではないか、と
最近、そんなことに気づいたのでした。


社会にはときに暴力が必要です。
しかし、その暴力は「私がふるいました」と、はっきり誰かが主張し
そこに若干の悪意を認めなければ、存在してはいけないものだと思うのです。


自分が暴力の主体になりたくはない。
でも、あの人には罰が下されるべきだと思う、という発想は
社会をどんどん疲弊させていきます。
誰かがブレーキを掛けなければ、主語のない暴力が横行し
それは、深い落とし穴を生むと思うのです。


その落とし穴に次、落ちるのは
あなたなのかもしれないのです。


もうひとつの問題は「噂」についてです。


これは、小説を書きはじめる直接のキッカケになりました。
地震のあと、様々な噂が横行し、真実がどこにあるか分からなくなり
僕たちはとても疲弊しました。


そんな中、僕の頭には「相原サユミ」という
誰とでも寝る高校生の女の子が、浮かび上がってきたのです。


地震という正体不明のカタストロフと、それを取り巻く噂について
直接解明しようと試みることは、自分にとって超えられないハードルですが
誰とでも寝る女の子と、それを取り巻く噂については
描ききることができるのではないかと思いました。


地震を女の子に移し変えても、噂というものの本質は変わらないはず。
そう信じて、自分は今回の物語を書こうと思い立ったのです。


ーーー


書くという行為は快感です。


サユミという人間の、仕草や言葉を描いていくことで
彼女はひとりのキャラクターとして自我を持ちはじめます。
自分とは違う考え方をする人間の思考をトレースするためには
なんとか、サユミになりきらなくてはなりません。


自分がしたことのない思考法で、サユミだったらここでこう言うんじゃないかと
想像し、じわじわと書き進めていくのには
まるで自分の脳を拡張していっているような、不思議な快楽があります。


とはいえ、もともとが自分の脳味噌なので
どうしても自分の持っている問題意識に引きずられて
サユミや、それを取り巻く人間たちは動き出します。


「噂」を描こうと思ってはじまった物語は
やがて「主語のない暴力」の問題を取り込み
最後には「記憶と呪い」の問題を取り込んでしまいました。


結果、物語の骨は「記憶と呪い」の問題になりました。
答えが出たような、そうでないような感じですが
小説とは、まあそんなものでしょう。


ーーー


このような経緯で、ひとつの物語を書き上げたのですが
書くという行為は、結局のところ
問題の移し替えに過ぎないんだなぁと、強く感じたのでした。


そして(少々大それたことを書きますが)
1995年からこっち、物語とは、たったひとつの問題の
移し替えでしかないのではないだろうか、と思っています。


『自分ではどうしようもないほどの
 圧倒的な力を前にして
 私たちは、どう生きていけばいいのだろう』


立ち向かってもいい、迷ってもいい、無視してもいい。
渋谷のホテルで戦争の終わりを待つのもそう。
使徒から逃げるのも、魔法少女になるのもそう。
1Q84で、たったひとつの愛を貫くのもそう。


自分の記憶を守りぬくのもそうだし
誰とでも寝る女の子と、関係性を築くのもそう。


この問題と真摯に向き合っている限り
全ての物語には、存在する価値があるし
今を生き抜くためのメソッドに成りうるのではないかと
そう、思っているのです。


ーーー


自分の存在に意味を見出そうとするのは
あるいは、僕の悪い癖なのかもしれません。


でも、自分のやっていることには意味があるんだって
信じるくらいはいいでしょう?


いつかたくさんの人が、自分の作品に触れてくれて
そこから何らかの価値を受け取ってくれたならと
そう、願っています。


そのためにも、まだまだ自分の実力を磨かないと!
マリオもルイージも。

サユミの話(あるいは原発の是非について)

 スナフキンによる殺人は世間をひどく混乱させていた。その猟奇性や謎めいた殺害予告はマスコミの格好の餌食となり、やがて全ての事件がスナフキンと関連づけて語られるようになった。そもそも殺人事件というのは日常的に起こっているものだが、それらがスナフキンという一本の糸で結びつけられて報道されることで、日本は終わってしまうのではないかという社会的空気が生み出され、3月の大量殺人を予告するインターネット上の書き込みが発見されると、首都圏の企業のほどんどが、社員に一週間の自宅待機を命じた。
 デザイン会社に勤める山岡もまた、会社が休みになったその日を、どう過ごそうか決めかねているひとりだった。テレビは全ての番組がスナフキンの報道をしていたし、インターネット上にも、スナフキンのことについて語る意見が溢れていた。組織的な犯罪なのではないか、とある宗教組織が関わっているのではないか、外国のテロ組織が指揮しているのではないか、化学薬品によるテロの前触れなのではないかなど、荒唐無稽の噂ばかりで、とはいえそのような情報に囲まれていると全てが本当のようにも思えてくる。会社に勤めている外国人たちは、一週間ほど前から次々と帰国していた。そのときは噂に流されすぎなのではないかと笑っていた山岡だったが、今になると、自分も地元に帰ってしまえばよかったかもしれないと考えているのだった。
 しばらくすればマスコミの報道も落ち着き、あるいはスナフキンが警察によって捕らえられ、この騒がしい状況も落ち着くだろう。日常が戻ってきて、普通に出社し、退社し、飯を食べ、夜になったら眠るという生活を送ることになるのだろう。しかし――山岡は考える――それは果たして日常と呼べるのだろうか。何か圧倒的に変わらない基盤のようなものがあって、その上に成り立っていた日常というものが、一度基盤が揺らいだあと、戻ってくることなどありうるのだろうか。視座が非日常に置かれてしまった今となっては、日常を想像するほうが難しいのだった。スナフキンに怯えず、外を歩くことが出来るとは、いったいどのようなことなのだろう。
 家にいると鬱々とした思考が巡ってしまう。たぶん、情報が限られているからだろう。普通に出社していた先週は、家に帰ってから夜にかけて取り入れた情報に混乱させられても、次の日の朝、太陽の光を浴びることで、混乱のほとんどが解消していたのだ。確かに道をゆく人の人数は圧倒的に少なかったし、コンビニでは非常食になるような食品がほぼ売り切れていたが、それでも太陽に照らされる街並みが与えてくれる安心感には圧倒的なものがあった。たとえどんな基盤が揺らごうとも、太陽の光は、決して揺らぐことのないものなのだ。
 だからとにかく、太陽の光を浴びたかった。特に目的はなかったが外に出ようと思ったのには、そういった理由があった。山岡は財布だけを手に持って、コンビニに立ち寄って雑誌を買い、駅前の喫茶店に足を運んだ。


 その喫茶店はチェーン店のドーナッツストアの上にある昔ながらの店で、店内は狭く、全ての席で喫煙が許されていた。コーヒーは決して安くない値段だったが、いつまで居ても文句を言われることがなかったので、山岡は休日の午後によく利用していた。月曜日に進めなくてはならないデザインのアイディアが浮かばないときなどは、手帳とペンだけを持ってそこへ赴き、落書きをしながらタバコを吸い、コーヒーを飲んだ。山岡はコーヒーが好きだったし、その店のコーヒーはとても口にあった。もちろん、家で好みに合わせた豆の挽き具合で淹れたものにはかなわなかったが、コーヒーを淹れたあとの片づけのことを考えると、何も考えず楽に飲めるぶん、コーヒーも美味しく感じるのだった。欲しいときに一声かけるだけで、おかわりを持ってきてくれるのも、とてもありがたかった。
 店は混んでいた。山岡と同じようなことを考えている人が多いのかもしれない。スーツ姿の会社員や、ウールのジャケットを着た老人の二人組、文庫本を読む女性などがひしめきあっていた。カップルはいない。デートコースに使うにしては少々マニアックな店なのだ。
 テーブル席に案内された山岡は、持ってきた雑誌を読みながらコーヒーを待った。やはりスナフキンの記事が多かった。一部のコラムには、日本人は少しパニックになり過ぎなのではないかという意見が書かれていて、山岡は自分は果たしてパニックになっているのだろうかと考える。極端に家に閉じこもっているわけでもなければ、店で買い占め行動を起こしているわけでもないが、間違いなく精神的には揺さぶられている。おそらく、この記事を書いている人も同じなのだろう。そうでなければ、わざわざスナフキンのことを書かず、いつものように本や音楽、政治の話を書けばよいのだ。でも、たとえ事件と関係のないことを書いたとしても、今ではそこに、ある種のポーズが備わってしまう。スナフキンの話などではなく、今こそ日常的な話をすべきなのだというポーズが。そのように考えると、社会的に大きな事件が起こるということは、誰もがそこから逃れられずに捕らわれてしまうということなのだ。事件に対する自分の姿勢を決めかねている山岡も、同じだった。あくまで基盤は社会の側にあって、山岡の中にはない。
 そのようなことを考えながら、雑誌に見入っていた山岡は、店員から声をかけられたとき、自分が話しかけられているのだと気づかなかった。
「お客様」
 目の前に手を差し出され、少し驚いて店員の方を見ると、申し訳なさそうな顔をしていた。
「すいません、席が混雑しておりますので、ご相席よろしいでしょうか」
「あ、はい」
 気の抜けた返事をしてから入口の方を見ると、白いコートを着たショートカットの若い女性が立っていた。休日の午後によく見る女性だった。巨大なバッグを抱えている(いったい何が入っているのだろう)。
 店員に案内された女性は、山岡の方に小さく一礼すると、遠慮がちに席に座った。店員がオーダーをとり、女性はカフェラテを頼んだ。店員が去ったあと、女性はバッグをどこに置こうか考えあぐねているようで、膝の上に抱えていた。
 気を使わせてしまうのも、なんだか申し訳ない気がしたので、山岡は声をかけてみることにした。
「よく来られてますよね」
 話しかけられるとは思っていなかったのだろう。女性は少し驚いたように身をこわばらせた。
「あ、はい」
 悪いことをしてしまったかな、と思った山岡は、コーヒーを一口飲んで、雑誌に目を落とした。数ページめくってみたのだが、一度距離を取りあぐねてしまった同じ席の女性を、どのように意識していいのかが分からず、そのことばかりを考えてしまう。より友好的に話しかけてみるべきか、あるいは今の一言は相席する上での、礼儀としての挨拶と位置づけ、自分ひとりの時間を過ごすことにするべきか。自分の姿勢をうまく定められず、それは先程まで考えていたスナフキンに対する姿勢を定められない自分という問題と相まって、山岡の気持ちを小さく揺さぶる。
 そんな落ち着かない山岡の気持ちを汲み取ったのか、しばらくして女性が話しかけてきた。
「あの……よく来られてますよね」
 山岡が顔を上げて、その言葉に対して返事をする前に、店員がオーダーのカフェラテを持ってきた。
「おまたせしました」
 テーブルに静かに置くと、去ってゆく。投げかけられた疑問はテーブルの上に留まり、女性はその答えを待っているのか、カフェラテに手をつけなかった。山岡は雑誌を閉じて答える。
「いつもは休日に来るんですけど、会社が休みになってしまって」
スナフキンですか?」
「そうですね。何も休みにすることはないと思うんだけど、会社が都心だから仕方ないんですかね」
「でも、不安じゃないですか?」
 女性はそう尋ねて、カフェラテを手に取る。その行為を見て、山岡はとても安心する。これは一時的な会話ではなく、女性は自分とある程度距離を詰めることを了承してくれているのかもしれない。
 山岡は閉じた雑誌をテーブルの上に置いて答える。「家にいると不安になるんですよね。テレビをつけても、その情報しか入ってこないから」
「それ分かります」女性は笑顔を浮かべる。「ほら、特に民放は不安を煽るような言い方をするから、外を出歩くなんてとんでもないって言われてるような気がしてきちゃって」
「でも、部屋に閉じこもっていると、どんどん不安になりますよね」
「そうなんです。だから、お茶でもしようかなって思って、ここに来てみたんですよ」
 目の前の人間が自分と同じ感情を抱いていたことを知り、山岡は安心する。気持ちを揺さぶられているのは自分だけではなかったのだということを確認できただけでも、声をかけてみてよかったと思った。
「やっぱり、仕事休みになったんですか?」山岡は尋ねる。女性をどう呼んでいいのかが分からないので、どことなく曖昧な表現になってしまう。
「いえ、実は今回の件とは関係なくて、しばらく仕事休んでるんですよ」
「そうなんですか」言いながら山岡は、それ以上突っ込んで聞いていい話題なのかどうかが分からない。
 そんな山岡の気持ちを汲み取ったのか、女性は言う。「ちょっと、心の病、みたいな感じで」
「大変ですね」そう言ってから、あまりに無責任な言葉だったかもしれないと不安になったのだが、女性は笑いながら受け答えてくれた。
「大変なんですよ。自分でもびっくりしてます。まさか病気になるなんて思ってもいなかったから」
 面と向かって話をしている限り、不安定な様子は見られなかった。山岡の会社にも、うつ病で会社を休んでしまう人はいる。そういった人たちの病状は、話をすればなんとなく感じとることができる。病状が悪ければ、会話をしながら相手の心が揺れ動いているのを如実に感じ取ることができるし、しばらく休むことで治癒してくれば、心情が定まってきたこともはっきりと分かる。風邪をひいた人と話をしていると、そのことを感じ取れるように、心の病もまた目に見えるのだ。
「でも、元気そうに見えますね」山岡は言う。
「元気なんですよ。自分でもそう思っているんですけど……でも、こういうのって自覚だけで判断すると大変なことになるって言われたから」
「確かに、そうかもしれませんね。でも休みを取らしてくれるなら、素敵な職場じゃないですか」
「そうでもないんじゃないかな」女性は冷静に答える。「会社のシステムとしては素敵かもしれないけど、実際、一緒に仕事をしていた人たちがどう思ってるかは、わからないでしょう?」
「きっと良くなってほしいと思ってますよ。他人って案外、優しいものですよ」
「それは教訓?」女性は山岡の目を見る。
「ごめん、偉ぶるつもりはなかったんだけど。どちらかというと実感かな」
「素敵な職場なんですね」
 女性に言われ、山岡は自分の職場のことを考える。「確かに、恵まれてるのかもしれません」
 山岡がコーヒーを飲むと、女性もカフェラテを一口飲む。何かを言おうかと考えているようだったが、すぐに言葉は出てこない。山岡はそれを待つべきか、再び雑誌を開くべきか考えあぐねている。女性は短い髪を右手で弄り、何度か瞬きすると、再び山岡の方を見て話しはじめる。
「ちょっとしたアンケートがあるんです」
「アンケート?」山岡は尋ねる。
「って言っても、紙に書くとかそういうんじゃないんですけど」
「いいですよ。何ですか?」
「あの、原子力発電所についてどう思いますか?」女性は、少し言いにくそうに言葉を発した。
原子力発電所?」山岡は思わず尋ね返す。
「はい。凍結すべきだとか、安全なら運転すべきだとか。ほら、ちょっと前にニュースになったじゃないですか」
 山岡は少し不安になる。この女性は、なんらかの社会活動をしているのだろうか。このあと署名や、最悪の場合、募金などを求められたりするのかもしれない。
 原子力発電所についてニュースになったのは記憶に新しい。しばらく前に大きめの地震が起こり、停止すべき発電所が停止しなかった。その事件をきっかけに、耐用年数を超えて運営されている発電所がマスコミによって次々とリストアップされた。今すぐ止めるべきだという意見と、一方で増え続ける電力需要との折り合いが付かず、一部の人たちの間では熱の高い話題として、未だに語られ続けているらしい。
 山岡の場合、近くに原子力発電所があるわけでもなく、はっきり言って当事者意識は薄かった。考えるべき問題なのかもしれないが、それ以上に差し迫った現実的な問題がたくさんあり、しっかり意識してなどいなかった。
「申し訳ないんだけど、あんまり考えたことがないんです」山岡は正直に伝える。
「私もです」女性が言う。
 山岡はその返答のあとに、でも、という接続詞が続くのだろうと想像する。しかし女性は言葉を続けなかった。
「え?」思わず声に出して言ってしまう。
「あ、ごめんなさい。別に私自身の主張を訴えたいとか、そういうんじゃないんです。ちょっとしたアンケートなんです」女性は言う。
「それは、個人的な?」
「はい、個人的な」
「差し支えなかったら聞きたいんだけど、それってどういう意図があるアンケートなんですか?」
「普通の人は意見を持ってるものなんだろうかって、そのことが知りたいんです。意外にみんな、訊いてみると自分の主張を持ってたりするんですよ。私は持ってないから、それって普通なんだろうかって、ちょっと気になってるんです」
「たぶんですけど、それは聞かれたから意見を言ってるだけなんじゃないですか?」山岡はそう言って、コーヒーを一口飲む。
「そうかもしれないですね。でも、私にはそれができないんです」
「もしそれが不安なら、意見を持っちゃえばいいんじゃないですか? たとえば、直感でかまわないので、発電所のこと、どう思います?」
「やっぱり、恐いですよね」女性は言いながら、何か別のことを考えているように見える。
「じゃあ、それをあなたの意見にしちゃえばいいんですよ」
「でも、こんな話があるんです」女性は山岡の提案には答えず、別の話をはじめる。「耐用年数を超えた発電所は危険だけど、それが取り壊されないのって、原発反対派の人が、新しい発電所を建てることに反対しつづけてるかららしいです。もちろんその人たちの望みは、今の原発が止められて、新しい原発も建設されないことなんでしょうけど、そうなったらどこかで電力需要を満たさなきゃならない。そうすると犠牲になる場所が出てくる。電力需要を減らしたら減らしたで、景気に悪影響を及ぼして、就職できない人たちが増えたりとかするわけですよね。でも私自身が原発の近くに住むことになったら、それはそれで嫌です。子どもができたりしたらなおさら、そう思うと思うんです。そういったことを考えてると、意見を持てなくなっちゃいませんか?」
「真面目なんですね」山岡が言うと、女性は笑いながら答える。
「そうなんです。難しく考えすぎるところは、よく煙たがられちゃうんです。もっと簡単に物事を考えれば、うまくいくんですかね」
「うまくいくとは思うけど」山岡は言う。「でもきっと、一度難しく考えちゃうと、簡単に考え直すことって、きっとできないんですよね」
 女性は手に持ったコーヒーカップの中を見つめながら言う。「それが、ちょっとした悩みなんです」


 家に帰ってからもやることのない山岡は、原子力発電所のことばかりを考えてしまう。インターネットで原発のことを調べると、現状のひどい運営方法などを文献で読むことができ、その惨状に憂う気持ちを抱える。だが、それ以上に深く調べてみると、文献そのものが捏造であるという記述にも行き当たる。何が真実で、何が間違いなのかも分からなくなり、自分の頭で考えようと努力するのだが、何かを立てれば何かが犠牲になるというふうに思考がループする。結果的に行きついたのは、この問題には答えがないのではないかという結論だった。
 しばらくして、女性の原発についての話は、何かのレトリックだったのではないかというところに考えが至る。たとえば心の病と会社についてのレトリックだったかもしれない。あるいは、スナフキンと社会に対するレトリックだったかもしれない。そのように考えると、世の中には答えの出ない問いというのが渦巻いているのかもしれない。だからこそたくさんの意見が渦巻いているのだろうけれど、そんな社会の中で自分の立ち位置を決めるということが果たして可能なのだろうかと疑問を持つ。
 もしそれが(すなわち正義を主張することが)不可能だとするならば、はっきりとした日常という基盤を持ち、その上で生活を続けること以外にできることはない。数々の問題に対して答えを出すことはできないけれど、それはともかくとして、自分の日常はこうであるという確かな現実が必要なのだ。日常の歪みとして譲れる部分もあれば、死守したい部分もある。そのようなやりとりの中で、最低限の日常を守ることが出来さえすれば、幸せな生活を送り、やがて年を取り、死ぬことができる。
 では、山岡に取って日常とは何なのか。何が守られれば不満なく人生を送っていくことができるのだろうか。
 まずはデザインの仕事を続けられることだった。そしてやがて愛する人に巡りあい、結婚し、子供ができ、その子どもが成長していくという可能性が潰されないことだった。でも、たとえば自分の仕事が原発の電力に支えられているとしたら? たとえば子供の人生が原発の存在によって歪められるとしたら?
 もしかしたら自分の思う最低限は、贅沢なのかもしれない、と山岡は思う。


 二日後の水曜日、同じ喫茶店に出向いた山岡は、入口に向かう階段であの女性とすれ違う。
「どうも」と挨拶をすると、女性は山岡に気づいて、言う。
「これから散歩でもしようかと思うんです」
「ご一緒してもいいですか?」山岡は言う。あれから長い間、誰とも話すことなく家に閉じこもっていたから、誰とでもいいから会話したい気分だった。
「コーヒーはいいんですか?」女性が尋ねる。迷惑そうな様子ではない。
「そのへんの店で買って、歩きながら飲みますよ。それだけ、付き合ってもらってもいいですか?」
「はい」女性はそう言って頷く。山岡は上がってきた階段を引き返す。


 コーヒーを買って公園にたどりつく。スナフキンによる殺害予告があってからすぐは街も閑散としていたのだが、さすがに日が経ったせいか、あるいは予告地点からある程度離れているせいか、主婦や子供たちの集団が見られた。みな、明るい顔をしていた。やはり太陽の力は偉大なのだ。
 山岡たちはベンチに座る。遊ぶ子供たちが、まるで古い映画のワンシーンのように見える。すぐ近くにいるのに、まるで遠い世界の出来事のように映る。しばらくすれば慣れるのだろうか。
「素敵ですね」女性が言う。「遊びたくて、だから元気に遊んでて、それだけなんですよね」
 山岡はコーヒーを飲みながら頷く。子供たちに対して何かコメントをしようかと考えながらも、一方で女性のことが気にかかっている。この人は、どうして心の病になってしまったのだろうか。それはいったい、どういう病気で、何が原因だったのだろうか。でも不躾にそれを訊くのは、あまりに無遠慮な気がしていた。おそらく、女性もそんな話はしたくないだろう。
 どこか遠くで救急車のサイレンが聞こえる。それは木々のざわめきと混じりあい、日常的な長閑さすら演出している。山岡は子供の頃のことを思い出す。やがて時間が経つと日が翳り、夕方になると子供たちは家に帰るのだろう。子供だった頃の山岡を、そのことを知っていた。太陽の中で遊びながらも、その時間はやがて終わるのだということを知っていた。いつか終わるという寂しさをどこかで抱えながら、楽しければ楽しいほど、その寂しさを実感しながら遊んでいたのだった。
 そう、あの頃は、いつかは終わるのだと知っていた。やがて大人になり、昼と夜、夜と昼がなだらかに繋がると、太陽を節目に終わりを実感することはなくなってしまったけれど、それはきっと、自分を騙しているに過ぎないのだ。
「僕らも、したいことをすべきなんですよね、きっと」山岡は言う。
「したいことかぁ」女性が誰に言うでもなく呟く。
「何かありますか?」山岡が訊く。
 女性は少しだけ悩んで、それから言う。「今は、おいしいケーキが食べたいかな」
「僕はおいしいコーヒーが飲めれば、それで幸せですね」
「じゃあ、おいしいケーキや、コーヒーを口にできるくらいのお金は必要ですね」女性がそう言って笑う。「仕事しなきゃ」
「仕事もきっと、楽しいに越したことはないですよね」
「楽しくないんですか?」女性は山岡の方を見る。
「楽しいですよ。辛いこともありますけどね」
「何をやってらっしゃるんですか?」
「ちょっとしたデザインです。広告とかの」
「えー。かっこいい」
「そんなにかっこよくはないです」
「でも、いいじゃないですか。デザインが好きで、デザインの仕事ができて」
 そんなに単純な話ではないのだ、と山岡は思う。人間関係もあるし、お金の話もある。スケジュールもある。でも、もっと引いた目で見たら、それこそ隣に座っている女性の視点まで引いたところから自分を見たら、もしかすると幸せなのかもしれないな、と思う。
「どうですか? 仕事は」山岡は多少の失礼を承知で、女性に尋ねてみる。
「うーん。詳しく説明するのはめんどくさいけど、あんまり楽しくはないです。もっと別のことをしたいな」
「たとえば?」
「たとえば、そうですね、人に感謝されたいです」女性ははっきりと口にする。
「感謝されるような仕事、見つければいいじゃないですか。それで少しのお金を稼いで、おいしいケーキを食べて」
「素敵ですね」
 そんなに単純な話ではないのだろう、と山岡は思いながらも、細かいことについては考えないことに決める。「それで、原発から離れたところに住めばいい」
「できればそうしたいですね」女性は笑いながら言う。
「他に、やりたいことってないですか?」山岡は尋ねる。
「そうだなぁ。恋がしたいですね」
「できますよ」
「本当に?」
「絶対に」
「なんで言い切れるんですか?」女性は少し口を尖らせて、山岡を見る。
「だって、恋がしたいんでしょう? したいなら、できますよ。そういうもんです」
「そういうもんですか」
 少し強い風が吹く。首に冷たさを感じる。木々がさらに揺れて音を立てるが、それはすぐに通りすぎてしまう。
「ねえ」女性は立ち上がって言う。「もし、私の『したい』と、あなたの『したい』が、ぶつかっちゃったらどうします?」
「どういうこと?」
「たとえば、私はあなたの持ってるコーヒーを、飲みたくて飲みたくてたまらないんです。でもあなたは、そのコーヒーを渡したくない」
「そんなにケチな人間じゃないよ」
「知ってます」女性は笑う。「たとえばの話。あなたはすごくケチなんです。だとしたら、どうします? 答えはふたつあります。渡す。渡さない」
 山岡は少し考えてから、答える。「それは、俺があなたに、どれくらい好意を抱いているかによって答えが変わるんじゃないかな」
「じゃあ私は、あなたに好きになってもらえるように、努力すればいいってことですね」
「そうだね」
 女性は何かを考えるように、空を眺める。山岡もつられるように、視線を上空へと移す。飛行機が淡い雲を引いて飛んでいくのが見える。
「じゃあもしも……」女性が言う。「あなたに好きになってもらうためには、どうしてもコーヒーをもらっちゃいけないってことになったら、どうすればいいんだろう」
「それは、どういう状況?」
「たとえばこれまでの話で、私はあなたのコヒーへの異常なこだわりを聞かされてるってわけ。カップの中に入ったコーヒーを、いかに冷まさず、いかに自分の喉を満足させるような配分で口に入れていくかを、事細かに計算して飲んでいるっていう、そういう話を」
「そんな人、いないよ」
「分かってますよ。たとえばの話です」
 山岡は少し考える。たとえばこの女性にコーヒーを取られると、すごく嫌な気分になるとする。「でも、半分くらいはあげるよ」
「どうして?」
「自分ひとりが幸せっていうのは、なんか幸せとは違う気がするから、かな」
「そっか」
 女性はそう言うと、大きく伸びをしてから山岡の方に向き直る。山岡はコーヒーを渡す。女性はそれを笑いながら受け取って、おいしそうに飲む。本当に、おいしそうに飲む。
「すべきと、したいは、違うよね」
 そう言いながら、コーヒーを返すとき、女性の手が、山岡の手に触れる。山岡は、その冷たさを感じて、なぜだか安心する。
「すべきじゃなくても、したいことって、あっていいのよね」女性は呟く。「私は、何をしたいんだろう」
 太陽に照らされた公園に投げ出されたその疑問は、しばらく中空に留まりつづけていた。山岡はその疑問をぼんやりと見つめながら、女性を喫茶店に誘おうかどうか、少し迷っている。

言葉と呪い

地震の瞬間、いつもの揺れだろうという安心が
このままじゃまずいんじゃないかという、不安にかわり
その不安はずっとずっと、続いたのでした。


「最悪の状況」が、頭を過ぎりました。
災害の記憶、ときにフィクションで
ときにノンフィクションで、何度も描かれている「状況」が。


震源地の近くに住む人たちは
それこそ大変なことになっているのだと思います。
実際、東京では電車の運行が止まったくらいで
目に見えた被害は、それほど多くありませんでした。


歩いて新宿から赤羽に戻り
深夜の保育園で息子を引き取ると
家に帰り、それからしばらくの間、閉じこもっていました。
みんなそうだったんじゃないでしょうか。


情報源といえばtwitterぐらいで
終末のような状況のツイートが続いていました。
それがやがて収まってくると、被災地への応援の言葉や
拡散希望
と書かれた、なんらかの情報をみんなに伝えようとする言葉や
日本人って素敵だねという言葉などに、変わっていったのでした。


不安な情報は、みるみる広がりました。
原発がやばいらしい、次に降る雨には有害物質が含まれるらしい、など
数々の情報が流れ、そして否定され、消え
自分が見てから4、5時間後に、嫁のところに
同じ情報が巡ってきたのを見たときは、笑ってしまいました。


テレビで流される映像は、そのうち代わり映えがしなくなって
そこにはアナウンサーの言葉だけがありました。
言葉、言葉、言葉……


ーーー


我々人間の言葉は、神の言葉の半分ほどしかない、という話があります。
それくらい、言葉が取りこぼしているものは多いということです。


私たちは言葉ですべてを語れると、勘違いしがちですが
それは間違っています。
じゃあ言葉というのは、真実に対して、どのような特性を持っているのか。
そのことについて、少し考えてみました。


ーーー


言葉というのは感情に近い。
人間は言葉で思考するからです。
事務的な言葉にも、発されるとき、感情という色が塗られることが多い。
言葉は、感情を帯びやすいのです。


だからこそ、言葉は感情に強い影響を与えます。
それはあたかも呪いのように、行動を縛るのです。


女の子から「好きだ」と言われると、なんだか気になってしまうとか
悩みを打ち明けられると、なんとか協力したいと思ってしまうとか
そういう強力な力を持つのが、言葉です。


でも一方で、言葉は「肉体的」な実感を伴いません。
関東では被害が少なく、次の日には太陽が美しく照っていました。
公園ではバドミントンをする男女や、楽しく遊ぶ家族に溢れていました。
その様子を見て僕は、肉体的な実感を持って
関東は平和なのだと思いました。


平和なのだから、できることがある。
節電をするとか、募金をするとか、そういった具体的な方法で
助けあうことが出来る。


そう思えるようになったのは、公園に出かけた後のことです。


ーーー


何も不安に思うことはないとか、そういうことを言いたいのではありませんし
言葉が言葉として拡散していくtwitterのようなメディアに対して
悪口を言いたいわけではありません。


現に、余震は今も続いています。
twitterの善意にあふれた発言の数々を見て
日本ってこれからよくなっていくんじゃないかと思ったのも事実です。


言葉によって感情が増幅され、拡散していくことで
今の日本は、よき感情に溢れている。
それは本当に、うれしいことだし、素晴らしいことです。


でも一方で、僕らは「肉体的」な実感を得られる生物なんだということを
忘れてはならないと思います。
そして言葉は「肉体的」な実感をフォローしないのだと、知るべきです。


ーーー


被災地の友人から「街の灯りがないから星がきれいだ」と連絡がありました。
たぶん、ものすごく寒いのだろうと思います。


今日、仕事は休みになりました。
外に散歩にでかけましたが、とても暖かい陽気の日です。


これから、日常がはじまると
数々の不満や不安が出てくるんじゃないかと、自分でも思っています。
でも、地震の恐怖とは、揺れを感じたあの瞬間の恐怖であり
寒さを感じている友人の苦しみなのだと
自分に、言い聞かせ続けたいと思っています。


不安の原因も、不安を解消するのも
肉体的な実感だけなのだと
自分に、言い聞かせ続けたいと思っています。


ーーー


これがよききっかけになりますように。
最悪の事件が、これで終わりますように。
不安で揺れ動く我々の心が、強くありますように。

芸術になってはならない


芸術っていうものの定義をきちんとした上での話ではないけれど
なんとなく「芸術」を作ってはならないという意識がある。


もっと砕いた言葉で言うなら
「感心」するようなものを作ってはならないとか
「難解」であってはならないとか
そういうことを言いたいのだけれど


なぜ「芸術」はダメなのか、ということについては
あまり熟考したことがなかった。


でも、最近ものを作る姿勢について
考えさせられる出来事があったので
このあたりのことについて、日々悩んでいる。



誰のために作るのか、というのが
この問題を解決に導く、ひとつの視座であるような気がしている。


ものを作る上での「責任」について考えているとき
それは、自分のためのもの作りに近づいている。
ものを作る上で「主張」について考えているときもまた
自分のためのもの作りに近づいている。


それらはあくまで、相手を楽しませるという
最低限の役目を果たしてから考えるべき、というのが
今の、自分の考えだ。



そもそも俺たちは、自分のことを
過大評価し過ぎなのではないだろうか。


作り手としての意識とか、責任とか、作品性とか
そんなことを語るほどの人間ではないんじゃないだろうか。


そういうのは、作品で相手を楽しませることのできたあとに
考えればよいことなのではないのだろうか。



橋にも棒にもかからないようなものを作っているうちは
作り手として胸を張っても悲しいだけだ。
我々は、どんな裏技を使ってもいいから
まず、相手を楽しませることの全力を尽くさなきゃならない。


偉そうなことを語るのは、そのあとでいい。
俺は、最近、そう思っている。