言葉と呪い

地震の瞬間、いつもの揺れだろうという安心が
このままじゃまずいんじゃないかという、不安にかわり
その不安はずっとずっと、続いたのでした。


「最悪の状況」が、頭を過ぎりました。
災害の記憶、ときにフィクションで
ときにノンフィクションで、何度も描かれている「状況」が。


震源地の近くに住む人たちは
それこそ大変なことになっているのだと思います。
実際、東京では電車の運行が止まったくらいで
目に見えた被害は、それほど多くありませんでした。


歩いて新宿から赤羽に戻り
深夜の保育園で息子を引き取ると
家に帰り、それからしばらくの間、閉じこもっていました。
みんなそうだったんじゃないでしょうか。


情報源といえばtwitterぐらいで
終末のような状況のツイートが続いていました。
それがやがて収まってくると、被災地への応援の言葉や
拡散希望
と書かれた、なんらかの情報をみんなに伝えようとする言葉や
日本人って素敵だねという言葉などに、変わっていったのでした。


不安な情報は、みるみる広がりました。
原発がやばいらしい、次に降る雨には有害物質が含まれるらしい、など
数々の情報が流れ、そして否定され、消え
自分が見てから4、5時間後に、嫁のところに
同じ情報が巡ってきたのを見たときは、笑ってしまいました。


テレビで流される映像は、そのうち代わり映えがしなくなって
そこにはアナウンサーの言葉だけがありました。
言葉、言葉、言葉……


ーーー


我々人間の言葉は、神の言葉の半分ほどしかない、という話があります。
それくらい、言葉が取りこぼしているものは多いということです。


私たちは言葉ですべてを語れると、勘違いしがちですが
それは間違っています。
じゃあ言葉というのは、真実に対して、どのような特性を持っているのか。
そのことについて、少し考えてみました。


ーーー


言葉というのは感情に近い。
人間は言葉で思考するからです。
事務的な言葉にも、発されるとき、感情という色が塗られることが多い。
言葉は、感情を帯びやすいのです。


だからこそ、言葉は感情に強い影響を与えます。
それはあたかも呪いのように、行動を縛るのです。


女の子から「好きだ」と言われると、なんだか気になってしまうとか
悩みを打ち明けられると、なんとか協力したいと思ってしまうとか
そういう強力な力を持つのが、言葉です。


でも一方で、言葉は「肉体的」な実感を伴いません。
関東では被害が少なく、次の日には太陽が美しく照っていました。
公園ではバドミントンをする男女や、楽しく遊ぶ家族に溢れていました。
その様子を見て僕は、肉体的な実感を持って
関東は平和なのだと思いました。


平和なのだから、できることがある。
節電をするとか、募金をするとか、そういった具体的な方法で
助けあうことが出来る。


そう思えるようになったのは、公園に出かけた後のことです。


ーーー


何も不安に思うことはないとか、そういうことを言いたいのではありませんし
言葉が言葉として拡散していくtwitterのようなメディアに対して
悪口を言いたいわけではありません。


現に、余震は今も続いています。
twitterの善意にあふれた発言の数々を見て
日本ってこれからよくなっていくんじゃないかと思ったのも事実です。


言葉によって感情が増幅され、拡散していくことで
今の日本は、よき感情に溢れている。
それは本当に、うれしいことだし、素晴らしいことです。


でも一方で、僕らは「肉体的」な実感を得られる生物なんだということを
忘れてはならないと思います。
そして言葉は「肉体的」な実感をフォローしないのだと、知るべきです。


ーーー


被災地の友人から「街の灯りがないから星がきれいだ」と連絡がありました。
たぶん、ものすごく寒いのだろうと思います。


今日、仕事は休みになりました。
外に散歩にでかけましたが、とても暖かい陽気の日です。


これから、日常がはじまると
数々の不満や不安が出てくるんじゃないかと、自分でも思っています。
でも、地震の恐怖とは、揺れを感じたあの瞬間の恐怖であり
寒さを感じている友人の苦しみなのだと
自分に、言い聞かせ続けたいと思っています。


不安の原因も、不安を解消するのも
肉体的な実感だけなのだと
自分に、言い聞かせ続けたいと思っています。


ーーー


これがよききっかけになりますように。
最悪の事件が、これで終わりますように。
不安で揺れ動く我々の心が、強くありますように。