アイドルロジック-1

 水野は貯水池のことを思い出している。
 立ち入りが禁じられていたので、家の近くだったにも関わらず、貯水池を取り囲む林は未知の空間だった。幼い水野は外周をまわる。危険な生き物が潜んでいるわけでも、不穏な空気が漂っているわけでもないのに、そこに理由のない不安を感じていた。
 夜空を眺める。それはたいてい会社からの帰り道のことで、うまくいかなかった一日を思い返して少しだけ落ち込んでいたりする。季節の変わり目で昼間は暖かかったのに、夜になると風が冷たい。今夜は月がきれいだから、明日はきっと晴れるのだろう。
 やがて脳裏に、貯水池を取り囲む林の風景が浮かび上がってくる。かつて何度か忍び込んだことがある。あたりは暗かった。木々の間から月明かりが照らしていた。どのような場所だったか、はっきりとは覚えていない。でも水野は記憶の中にあるその林を、走ることができる。
 木々の形状は焦点を結ばない。土の色や、そこに生えていたであろう草の感触も定まっていない。でも感情だけは、まざまざと蘇ってくる。狭い歩幅を懸命に重ね、息を切らしながら走っていると、やがて貯水池が姿を現す。木々のざわめきなのか、遠くを走る車の音なのか、正体の掴めない雑音があたりを満たす。
 そして水野は、貯水池のほとりに相原の姿を見る。知らない誰かと一緒にいて、ふたりはキスをしている。ちょうど映画に出てくるカップルのように。いつのまにか高校生の姿になっている水野は、ふたりのことを見つめている。月明かりに照らされた、記憶の中の相原が顔を上げる。目が合うと、いたずらっぽい笑みを浮かべているように見える。
 月を見ると、いつも相原のことを思い出す。
 はじめに浮かんでくるのは、ぼやけた表情だ。輪郭ははっきりしないけれど、相原が身にまとっていた雰囲気は正確に思い出せる。かつての水野自身の幸せな気持ちや、辛い気持ちも同時にやってくる。声も思い出すことができるけれど、具体的な言葉がやってくるまではまだ時間がかかる。
 やがていくつかの感触がまざまざと蘇る。人差し指の先の暖かさ、触れる手のひら、鼻先と上唇の圧迫感、そして舌の表面。しばらくすると、あのときの体の感触と体温が、体の奥から引き出される。
 固いシーツと、やわらかな肉体。
 裸で抱き合いながら、体が接触するラインに熱を感じていた。相原はいつも背中を向けていて、水野は後ろから抱きしめているのだった。ひどく怒っているときも、背中だけは水野に委ねてくれていた。
 水野は後ろから謝る。でも、相原はそれを受け入れない。
「なんで私が怒ってるかわかる?」
「わかってるよ」水野が答える。
「わかってるなら、何度も同じことするわけないでしょ?」相原は悲しそうに声を震わせる。
「本当にごめん」
 水野はいつも謝ることしかできない。すると相原は言うのだった。謝らないでよ、それじゃ私が許さなきゃいけないみたいじゃない。
 具体的な内容は覚えていない。たぶんいつだってくだらない、ちょっとした諍いに過ぎなかったのだろう。水野は高校生の頃の思い出を辿る。背中を預けながら、それ以外の全てをシャットアウトして悲しみに沈む相原のことを少しでも解ろうと、ゆっくり記憶をなぞっていく。未だに読み解けない感情が、頭の隅で置き去りにされている。
「謝らないでよ、それじゃ私が許さなきゃいけないみたいじゃない」
 相原に言われると、水野は何も言えなくなってしまう。だからより強く、背中を抱きしめる。
「……気を使わせないでよ。悲しいのは私の方なんだよ。悲しい気持ちなんだから、悲しいままにさせておいてよ」
 相原の声が頭の中で、徐々に鮮明になっていく。
 記憶とは脳を駆けめぐる電気信号なのだという。水野は夜空の星にイメージを借りる。いつか見た脳の神経細胞の写真と、銀河の写真を重ね合わせている。地球に星明かりが届くように、星と星も光を交換していることを思う。
 街はビルの光が眩しくて、星の明かりを隠してしまう。だから夜空を眺めるのは、会社帰り、駅から離れてからのことだ。月がきれいな日の翌日は晴れると教えてくれたのは相原で、あの頃の水野は夜空を見ると、相原も同じ月を見ているかもと、そんなことを考えたのだった。
 会社に通うのは週に5日で、休みの2日は家で休む。気持ちが弾む帰り道もあれば、落ち込んでいる帰り道もある。果たさなければならない責任を、確実に果たしている自分が好きだ。まわりの人間より頑張っている優越感、評価されている優越感、自分がいなければ全てが立ちいかなくなってしまう、その状況の中に身を置いていることを誇りに思っている。でも、いつもうまくいくとは限らない。ときどき有給を取ったりもする。仕事をしている自分が好きなのに、出社する日が4日になると、なぜか、それだけで気分が軽くなる。
 落ち込んでいるときは上を向いたほうがいいと教えてくれたのは相原だったか、あるいは別の人だったか、はっきり覚えてないけれど、見上げるとそこにある月は、記憶を引き出す呼び水になる。
 でも今の相原が同じ月を見ているという想像は、いつしかうまく働かなくなっている。月はまるで空に開いた穴のように、静かに浮かんでいる。


 高校生の頃の水野は決して目立つ人間ではなかったが、相原と付きあっていたせいで、いつも数々の噂に晒されていた。真実が脚色されたものもあれば、荒唐無稽なものもあった。水野は幾度となく傷つけられたけれど、それでも構わないと思えるくらいに相原のことが好きだった。あるいは性欲の虜になっていただけかもしれないが、今となってはよくわからない。
 水野と相原は、出会った次の日にはもう付きあっていて、彼女に言わせれば一目惚れだったらしい。友達の家に泊まりで遊びに行ったとき、黒川という友人に連れられてきていたのが相原だった。恋愛に関わるトラブルの多い子だということは知っていたけれど、実際に話をすると、そんな前情報などすぐに忘れさせてくれるくらいに可愛かった。仕草のひとつひとつに、水野は瞬く間に惹きつけられていった。
 相原と黒川は幼なじみらしく、みんなで缶ビールを飲んでくだらない話をしているときにも、親しげな様子が見てとれた。水野はその関係性を羨ましく思いながら、ふたりが会話する様子を眺めていたのだった。
 黒川は、学校の近くにある喫茶店で働く年上の女性と付きあっているようだった。水野も何度か見たことがある。耳には控えめなピアスが輝き、わずかな頬の動きで多彩な表情を作りあげる、高校生では絶対に身につけることができない類の色気を持っている女性だ。
 黒川からその話を聞いて、水野は不思議に思った。てっきり相原と付きあっていると思い込んでいたからだ。黒川は笑いながら言った。そういうんじゃないよ、こいつは妹みたいなもんだからさ。相原のことを一番よくわかってるのが俺だって自負はあるけど、それは付きあうとかとはまた別の話だよ。
 その日、水野は相原の隣に座っていた。はじめから相原の好意のようなものをなんとなく感じ取ってはいたのだが、そのことをいまいち信じ切れずにいた。でも相原の右手が水野に左手に触れ、はじめは偶然の接触に過ぎなかったが、次第に指先と指先が絡みだし、やがて互いに握りあう頃には、もうそれ以外のことは考えられなくなっていた。どちらが先に確信的な力を込めたのかはわからない。あるいは、その『どちらともなく』という状態を保つことで、罪を共有しようとしていたのかもしれない。他のたくさんの友人に隠れて手と手を触れ合わせるのはとても刺激的な行為で、水野は相原自身の魅力よりむしろ、その刺激に惹かれていた。
 相原がコンビニでお酒を買ってくると言い残し、表に出る。二、三分してから水野が後を追うと、彼女は玄関を出てすぐのところで待っていて、目と目があった次の瞬間、ふたりは貪りあうようにキスをする。
「どうして?」水野が尋ねる。その問いには答えず、相原は言う。
「私のこと、知ってる?」
 水野が頷くと、相原はまるで呪いのような言葉を口にする。
「それでも、ずっと好きでいてくれる?」
 買い物を終えて部屋に戻ってきたふたりは、新しい距離を獲得している。握りあう手や触れあう肩には、ずっと確信的な力がこもっている。数々の視点がふたりを観察する。興味、妬み、羨望、その他様々な感情が、ふたりから情報を引き出そうとする。やがて情報は噂として拡散するのだろう。だがそのときの水野は、先のこと考えられるほど冷静ではなかった。
 やがてみんなが寝静まると、ふたりはこっそりとじゃれあいだす。シャツの下に潜り込む水野の手の冷たさに、相原はくすぐったがりながら身をよじる。胸をまさぐる手に導かれて相原の声が漏れ、その瞬間、冗談が冗談ではなくなる。懸命に息を殺す相原はやがて、右手を水野のズボンへと伸ばす。布の上から優しく撫でると相原は、大きくなってるね、と耳元で囁く。それを聞いて水野は、いつかどこかで見た映像の中にいるような気分になる。互いの声が、息づかいが、ふたりの小さな空間を急速に温めてゆく。
 やがて相原は水野にキスをすると、体ごと毛布の中に潜り込み、水野のズボンを下ろす。そのまましばらく時間が過ぎる。
 水野が少し身をよじると、やがてその下半身が相原の両手によって優しく包まれるのを感じる。相原は何かを確かめるように、ゆっくりと撫でる。水野からは相原が見えず、視界には薄暗い天井しか映らない。その広い闇を、水野は急に背負わされたような気持ちになる。
 相原は口を使う。水野は気持ちよさに身を委ねながら、同時に部屋の静けさを確認し、闇の中に視線が存在しないかを観察する。見られていなければいいと思いながらも、そこまで深刻な問題として捉えてはいない。このとき誰かに見られていたかもしれないという可能性が、ことあるごとに頭をよぎるようになるなどとは、露ほども思っていない。
 しばらくすると相原は毛布から顔を出す。いたずらっぽい笑顔を見せると、そのまま水野に跨って腰を沈める。あるはずの下着はそこにない。
「いつの間に?」水野が尋ねる。
「さっき舐めてるときに脱いじゃった」そう言って相原はぺろりと舌を出す。


 そうしてふたりは付きあうことになったのだが、相原は普通の女の子とは違った感覚を持っていた。他の男と寝ては、そのことを悪びれもせず水野に話すのだ。相原にとって恋愛とセックスはきれいに分かれていて、そこに関連性は存在しないようだった。
 どうして他の男と寝るのだろう。水野は高校生の頃、ずっと疑問を抱えていた。直接尋ねてみたこともあるけれど、明快な答えは返ってこなかった。
「やきもち焼いてるの?」相原は少し嬉しそうな顔をして尋ね返す。
「怒ってるんだよ」水野はできるだけ不機嫌な感情を顕にしようとする。
「怒ってくれるんだ」
「くれるんだ、じゃなくて、どうしてって訊いてるんだよ。そもそもどういう流れでそういうことになっちゃうわけ? 誘うの? それとも誘われるの?」
「誘われる」相原は俯いて言う。
「どうやって?」
「そろそろ行こうか、って」
「で、ついてくの?」
「ついてく」
「なんでだよ、断ろうとか思わないの?」水野は問いつめるが、相原はうーん、と考え込んでしまう。
「俺のこととか思い出さないの?」と水野。
「それとこれとは別だから」と相原。
「俺のこと好きじゃないの?」
「好きだよ。いつも言ってるじゃん」
「じゃあなんで?」
「なんでかはわかんないんだけど」相原は少しだけ悩んでから言う。「終わったあとはちゃんと後悔するんだよ。やらなければよかったって」
 ちゃんと後悔する、という表現が日本語として正しいのかどうなのか、水野はわからなくなる。後悔するくらいならやらなきゃいいのにと思いながら、同時に何を言っても無駄なのだろうと知っていた。きっと相原は誘われるより前に、自覚のないまま誘っているのだ。
 たとえばある日、朝のホームルームが終わったあと、杉山が水野の席に近づいてくる。いつも黒く日に焼けているサッカー部の男だ。
「おまえの彼女、やべぇな」
 何のことかと水野が尋ねると、杉山はニヤニヤと笑みを浮かべる。
「昨日のプールの授業が終わったあとのことなんだけどさ、俺、先生に頼まれて更衣室の鍵を閉めに行ったんだ」
「それで?」水野はなるべく平静を装って尋ねる。
「相原がさ、更衣室にいたんだよ。まだ水着だったから、まずいなと思って更衣室を出ようとしたんだ。普通そうするだろ? でもさ、すぐに終わるからそこで待っててって言うわけ。向こうがだぜ。で、そう言われたら仕方ねぇから待つじゃんか。そしたら着替えはじめたんだよ。見せつけるみたいにさ」
 自分の正義を主張するかのように、杉山はそこそこ大きな声で喋る。不謹慎なのは相原の方なんだ、とでも言いたげな口調に、水野は腹が立つ。そんなことお構いなしに、杉山は続ける。
「もちろん全裸ってわけじゃねぇけど、タオルに体を包んで着替えはじめたわけ。あいつ胸でかいんだな。なぁ、相原っていったい何がしたいんだよ」
「俺に訊かれても困るよ」水野は言う。
 杉山はまるでその言葉が免罪符であるかのように、ほんの少しだが確実に、態度を変える。
「ったく、ビッチだな。あんなんじゃ誰かにやられても文句言えないぜ?」
 本当は『誰か』ではなく『俺』と言いたいんだろうと水野は思う。思うけれど、口には出さない。このままいけば、そのうち俺は杉山の彼女にひどく恨まれることになるかもしれないと、水野はとても憂鬱な気持ちになる。
「なんだかんだ、おまえも好きなんだろ、そういうの」杉山がニヤリと笑う。歯に青海苔がついている。
 朝から何を食ってきやがったんだこいつは。むかついた水野は、そのめちゃめちゃカッコ悪い事実を大声で叩きつけてやろうと考えるが、それより前に郷田がやってきて、杉山の机を力強く叩く。教室が静まる。
「好きになっちまったもんは仕方ねぇだろ」郷田がぼそりと言う。
 ガタイがいいからなのだろうか、その言葉はまるで世界共通の定理のように響く。よくよく考えたら安っぽいセリフなのにも関わらず、杉山はすくみあがり、水野もまた少し動揺してしまう。教室が俄にざわめきだしたのは、その言葉と囁かれている噂話を並べて見たときに、まるでしつらえたような精度でピタリと重なるからなのだろう。
 郷田は、かつて相原とのセックスに溺れて三日三晩やりまくり、家に帰らなかったことで問題を起こした、どうしようもない男なのだ。


 付きあっていた水野から見ると、相原もまたどうしようもない人間だった。彼女について真実通りの噂が行き交っているとしたら、周りから数々の恨みを買っていただろう。
 しかしそうではなかった。他の男と寝たという事実や、そのときに何を思っていたのかということを相原が誠実に話そうとするのはあくまで水野の前だけでのことだったし、噂しか知らない他の女の子たちの間では、なぜか情報が奇妙に変形しているのだった。
 たとえば杉山の更衣室でのエピソードは、彼がこっそりと忍び込んで覗き見をしたという話に変わってしまう。一方で郷田とのエピソードは『本気で愛しあっていた』という純粋な恋物語に変質する。性欲の匂いを微塵も感じない、非現実的な物語だ。そして、ふたりの愛がやがて終わりを迎えると、失意の底にいた相原を救い出したのが水野ということになっているらしい。相原が郷田と寝ていたとき、既に水野とも付き合っていたという事実は、なぜか既に歴史から消え去っている。
 不思議なのは、情報を変形させるために相原が積極的に行動していないところだった。もちろん相原が自分に都合のいい情報を積極的に流したとしたら、そんなことはすぐにバレるものだし、その行為自体が相原への不信感に繋がり、結果、彼女は教室の隅に追いやられてしまっただろう。
 そもそも、男と女が閉じこもった密室で何が起こったかなんて、誰にも知ることはできない。当然のように複数の真実が想像されるし、その中から人々が選択したものが真実になる。このとき得てして選ばれるのは、物語として最も面白いものなのだということを水野は知る。究極の大恋愛を経て失意の底に沈み、水野によって救われた相原という物語がとても魅力的な反面、そんな彼女が男を誘惑するのは物語として座りが悪い。一方でサッカー部のエース杉山には、相原に誘惑される物語より、実は変態的な趣味があったという物語のほうが似合うということだ。
 相原自身はそのことをどう捉えているのだろうと疑問に思った水野は、ふたりきりになると相原に尋ねたのだった。たとえば杉山とのことについて。
「そんなの昔の話じゃん」相原は答える。
 三ヶ月前って昔なんだろうか。水野が納得のいかない様子でいると、相原は立て続けに言う。
「そんな話、気にしないでよ」
「気にしないってわけにはいかないだろ」水野は不満を訴える。
「ねぇ水野、そんなのって本当になんでもないことなんだよ。だいたい私、杉山のことなんか好きでもなんでもないし」
「じゃあ、なんでそんなことするの?」
「だから、からかってみただけだってば」
 相原は本心から言っているように見える。水野がしばらく黙っていると、相原はゆっくりと続ける。
「私、水野のこと、すごく好きなんだよ。だから細かいことを気にする必要なんかないし、気にしてほしくない。愛してる私を信じてほしい。わかってよ」
「わかってるよ」
 水野が言うや否や、相原は言葉を被せてくる。
「わかってない。全然わかってない! 愛してるって苦しいんだよ。ひとりでいるといつも思い出しちゃうってことなんだよ。いっそ出会わなければよかったって思うこともあるくらいなんだよ。そういう気持ち、想像したことある?」相原は水野の目を真摯に見つめる。「私は、あなたの100倍はあなたのこと考えてる。水野のことを思って苦しんでる。それだけじゃダメなの? それじゃ足りないの?」
「違う」水野は強い口調で相原を黙らせる。「愛してくれてるってことは、わかってるつもりなんだ。でも現実に不都合がおきてる。君と寝た男の彼女は、みんな君じゃなくて俺を恨むんだ」
「私以外の子の、誰に嫌われたって構わないでしょ?」相原はキョトンとした顔で言う。
「でも、画鋲は痛い」
「画鋲?」
「画鋲だよ」
「模造紙をとめたりするあれ?」
「嫌がらせの代名詞のあれ。靴の中に入ってるんだ毎日毎日」
 杉山の彼女は、悲劇のヒロインという役回りを上手に、そしてたぶん気持ちよく演じているが、それは本心ではないのだろうと思う。言葉と気持ちが分裂し、その分裂に悩み、耐え切れなくなると、ネガティブな思いは固まって画鋲になる。
「誰がそんなことするの?」相原が尋ねる。
「知らないよ」水野は推理を心の中に押し留める。
 相原は少し考えこむと、何かを決心したように強い口調で言う。
「大丈夫だよ、何があったって、私が水野を守る。私はいつも、水野の味方だから」
 じゃなくてそれより前に反省すべきことが、と言おうとして言えない水野は既に相原の上目遣いに射ぬかれて動けなくなっている。そして同時に、幸せを感じている。愛されている実感としか言えないような感情が身体中を満たし、かわいいなぁ、水野は思う。さらに口にしてしまう。かわいいなぁ。その言葉を聞きとめて不敵な笑みを浮かべる相原だったが…


 水野の記憶が定まらない。不敵な笑みは愛情たっぷりの笑みに書き換わり、でもやはり不敵な笑みだったような気もして、記憶を何度も書き換えているうちに、その表情はやがてひどくぼやけていってしまう。
 どちらが真実なのだろう。たとえば会社からの帰り道で、水野は考える。あの瞬間を捉えたビデオがもし存在するとしたら、そこにはどんな表情が記録されているだろう。だが相原の表情が水野の記憶の中にしかない以上、それを確かめるのはもはや不可能だ。
 考え方を変えれば、水野が信じた表情こそが真実であるとさえ言える。愛のほほえみと不敵な笑み、どちらか選びたい方を選べばいいのだ。でも水野は選べないでいる。
 夜空を見上げて水野は、夜の貯水池のほとりに、相原が立っている姿を思う。ときに愛のほほえみを、ときに不敵な笑みを浮かべている。
 いつだったか、社会人になってから実家に帰って家族で話をしているとき、その貯水池の話をしたのだった。幼い頃に恐ろしさを感じていたことなどを水野が話すと、貯水池は、水野が中学生の頃に埋め立てられ、林も切り開かれてしまったはずだと親が言った。それが真実ならば、相原がそこにいたはずはなかった。
 だがそれは、捏造というにはあまりにはっきりした記憶だった。水野は混乱する。他にもいくつかあるぼんやりとした記憶の全てに対して、自信がなくなってしまう。校門で待ち合わせて一緒に帰ったこと、徒歩の相原にあわせて自転車をひいて歩いたこと、雨の中ひとつの傘で、となりの相原が濡れないように気遣ったこと……雨といえば、相原の家の近くの駐車場で、傘をさしながらパジャマの上にコートを羽織った相原と、座り込んで話をしたのはいつのことだったろう。具体的な会話は思い出せない。どうしてそんな状況になったのかもまるで覚えていない。不安になった水野は、冷静に記憶を辿っていく。そうすると、少しずつ細かい感触が蘇ってくる。傘の柄を握る手が雨に濡れていたこと、膝が痛くなって何度か立ったり座ったりを繰り返したこと、お互いの傘が何度かぶつかったこと、それから相原のシャンプーの香りをとても心地良く思ったこと。
 でも今、その香りを思い出すことはできない。香りは記憶を呼び覚ますのに、どうして記憶から香りを引き出すことができないのだろうと、水野は不思議に思う。


 水野は相原とつきあいながら、どこか負い目を感じていた。たとえば休日に街で買い物をしているとき。
 相原の親は裕福だった。地元の中堅企業の社長で、工場か何かを経営していたらしい。かといって相原の金遣いが荒いというわけではないのだが、水野はときどき自分との感覚の違いを感じたのだった。
 水野が育った家庭は裕福ではなかったが、貧乏でもなかった。お金がないことで苦労した覚えはないので、実際の経済状況は水野の人格に影響を及ぼしてはいない。むしろ水野にとって大きな問題だったのは、親がこの裕福ではなく貧乏でもないという状態のために努力している、という事実だった。
 たとえばちょっとした小物を買うとき、あるいは喫茶店でお茶を飲むとき、財布からお金を払う。この瞬間、相原は痛みを感じていないが、水野は痛みを感じている。とても些細な痛みに過ぎないのだけれど、それは『みじめさ』としか呼びようのない感情として蓄積されてゆく。
 この『みじめさ』の蓄積はいつまでも消えることがない。大人になり、自分で稼ぐようになった今でも、お金を払うという行為は痛みを伴っている。だから無駄遣いを控えるかというとそれはむしろ逆で、『みじめさ』を消し去りたいという思いが水野にお金を使わせるのだった。
 お腹をすかせているわけでもないのに、お金のことで『みじめさ』を感じるなんてとても馬鹿馬鹿しいことだと、水野はあのときから思っていた。でも相原と街を歩くたびに『みじめさ』は確実に降り積もってゆく。やがて、この感情を解消しなければならないと思うようになる。それも、お金を得る以外の手段で(お金がないからみじめなのだと短絡的に思いたくないからだ)。たとえば何らかの成功を収めて有名になれば、この『みじめさ』は消えてなくなるかもしれないと考える。きっと羨望のまなざしは、小さなネガティブたちをかき消してくれることだろう。
 でも、自分の中にある『みじめさ』を直視したくない水野は、そういった思考をまるごとスキップして、相原に結論だけを伝える。
「有名になりたいんだ」
 具体的な言葉になると、話はよくある退屈な夢物語に変換されてしまう。しかし言ったことに嘘がない以上、うまく取り消す方法は見つからない。
「そっか」と言って、相原は上の空でいるように見えた。実際には何を考えていたのだろうと、水野は思い返す。より深い言葉の裏側に考えを巡らせていたか、まるで興味がなかったのかのどちらかだろうとは思うのだが、今となっては何もわからない。
「相原は、夢とかある?」水野は尋ねてみる。
「夢か……」相原は小さく呟く。「夢っていうのとはちょっと違うかもしれないけど、何でもいいから目標は欲しいな」
「目標?」
「うん。少し背伸びをすれば叶うような目標が、いつもあればいいなって思う。目標を達成して、私やったじゃんって気持ちになって、しばらくしたら次の目標が自然とできて、っていう毎日が続いてほしい」
「意外に堅実なんだね」水野が言うと、相原は慌てた素振りで訂正する。
「違うよ? 目標っていっても、そんなたいしたものじゃないの。春物のスカートを買いたいとか、部屋の模様替えをしたいとか、そういうのでいいんだ」
「浮気相手を奥さんと別れさせたいとか?」
 水野はふざけて言ったのだが、相原は頷く。
「たまには、そういう刺激的なのも必要かもしれないね。何にしてもさ、自分の人生に飽きちゃうのが一番嫌だから」
 水野が相原とのことを黒川に相談したときは、もう少し直接的な会話ができた。誰と話していても無意識のうちに虚勢を張ってしまう水野にとって、黒川は自然体で接することのできる数少ない相手だったのだ。
 親が離婚して、母親と暮らしている黒川はとても貧乏で、しかし水野が常日頃感じているような『みじめさ』とは無縁のように見えた。成績が良いわけでもなく、天性の勘のようなもので運動神経はいいけれども部活で本格的にやっているような人には敵わない、そんな黒川が水野の目から見ると、誰より一番自由に思えた。その自由さが幾人もの女の子を惹きつけるように、水野もまた魅力を感じていた。
「相原の家は金持ちなんだからさ、おごってもらえばいいさ」黒川は言う。
「そういうわけにもいかないよ」水野は言葉を選びつつ答える。「男として、なんていうか……プライドが傷つくというか」
「プライドって、おまえも相原も親の金を使ってるわけだろ? 自分のプライドに話を結びつけるのはおかしくない?」
「いや、そうなんだけどさ。なんていうか、カッコ悪いじゃん、お金払ってもらうとかさ」
「おまえは金持ちがカッコイイと思ってるわけ?」
「そういうんじゃねぇよ……」
「じゃあ気にすんな」黒川は、はっきりと言い切る。「相原は金持ちだから、ときどきおまえに金を払う。その分、おまえには相原に与えられるもんがあるかもしれない。そしたら、それを与えりゃいいさ」
「……俺が相原に与えられるものって何なんだろう」水野が言うと、黒川は笑う。
「知らねぇよ。そんなもん自分で考えろ」
 水野がそれを聞いて困った顔をしていると、黒川は少しだけ考え込む。そして言う。
「たぶんだけどさ、あいつは愛されることに飢えてんだと思うんだよね」
「愛って何だよ」水野は訊く。
「俺もよくわかんねぇけどさ、うれしいときに一緒にうれしいと思うとか、悲しいときに一緒に悲しむとか、そういうのの積み重ねだったりするんじゃねぇの? そんだけでもさ、おまえがいる価値ってあると思うぜ。少なくとも、あいつにとってはさ」
 黒川はそう言うと恥ずかしそうに笑った。
 水野は思う。あの頃の黒川に今の自分が出会ったら、きっとただの若い高校生だと、笑ってしまうことだろう。可愛い奴だとすら感じるだろう。でも今になっても水野は、黒川をどこか尊敬していて、黒川のようになりたいとすら思っている。たぶん記憶の中で美化されているだけなのだと思うけれど、そう信じたくない気持ちもある。
 記憶というのは不思議なもので、若い頃に感じた心の動きの、その大きさを補正することなく、そのままに保存してしまう。黒川の言葉も、相原の視線も、それから辛いできごとの辛さも、いくら水野が大人になって、どんなに成長したとしても、変わることなく思い出されるのだ。
 今の水野は、それなりに恵まれた職場で、きちんと仕事をして、きちんと給料を稼いでいるから、お金に困ることはほとんどない。にも関わらず、みじめさを感じる瞬間は変わらずやってくる。おしゃれな家具や、高級なオーディオ機器、服、少し値の張るレストラン……手が届かないものは無数にある。きっとこの感情はもはや、どんなに多くの金を手に入れても、消えることのないものなのだろうと思う。


 水野のところに同級生の坂下から電話がかかってきたことがあった。健康的な可愛らしさを持った、杉山と付き合っている女の子だ。時刻は既に深夜で、家族は既に寝静まっていた。
「話したいことがあるんだけど、会えないかな」坂下はとても言いにくそうに口にする。
 水野は身構える。もしかしたら政治的な行動かもしれない。相原の誘惑を嗅ぎつけ、水野に敵意を向け、画鋲を仕込んだはいいけれど事態に進展は見られず、煮え切らない思いでいたところ、何か勝算のある計画を見出したのだろうか。水野とコンタクトを取ることは、ここからはじまる大きな事件の第一歩なのかもしれない。
「いや、ちょっと、ってか、なんの話?」水野はどう答えていいかわからず、曖昧な返事をした。
 すると、坂下は黙ってしまう。電話の向こうへ耳を澄ますと、すすり泣く声が聞こえる。
 やっかいごとに巻き込まれるのはごめんだった。それが相原絡みであればなおさらだ。関わったが最後、きっと水野が意見を言うより前に女たちの間で事態はどんどん進展し、望みもしない立ち位置を与えられ、気づかないうちに何かの共犯者にされてしまうに違いない。そういったいざこざとは、できるだけ距離をとっておきたかった。水野は相原が好きで、相原とふたりでいる時間が好きで、それだけなのだ。
「とりあえず、泣きやみなよ」水野が言うと、坂下は大きな声で言う。
「同情なんかしないでよ! 何もわかってないくせに、わかったようなふりなんかしないで!」
 わかったようなふりなんかしていない、と水野は思う。電話の向こうから車の走る音が聞こえる。外にいるのだろう。きっと電話を掛ける前から、外でなければ話せないような会話になると、坂下は知っていたのだ。水野はそこに計画性を感じたのだったが、どうあっても泣かれてしまったのでは仕方がない。
「話、聞くよ。今どこにいるの?」
「学校の前の公園」
 家から自転車で十五分の距離だ。水野は、このまま坂下を無視するよりは、行って話を聞いたほうがマシだろうと考える。無視したらきっと自分は加害者になってしまう。それよりは情報を集め、状況を整理して、自分の立ち位置を遠ざけるために努力した方がいい。
 だが実際に出向いてみると、坂下は本当に迷っているように見えた。陰謀などではなく、単に話を聞いてほしいだけのような口ぶりだった。
「どうしたらいいかわからないの」
 坂下はブランコに座って、うつむきながら言った。水野はブランコを取り囲む背の低い鉄パイプに座りながら坂下と向き合い、坂下と同じような場所に視線を落としていた。水銀灯の光が地面に淡い影を作っている。
「何があったの?」水野は何も知らないふりをして言う。
「杉山が……相原さんと寝てた」坂下は本当に辛そうに答える。
 水野は坂下の考えていることがわからない。藁をも掴むような気持ちで相談したのかもしれない。あるいは、真夜中に相談したのだという事実こそが重要であって、やはりこれは何らかの計画にとって必要な手続きなのかもしれない。
「ごめんな。相原にはきつく言っておくよ。もうそういうことはするなって」
「冷静なんだね」坂下は、どこか責めるような口調で言う。
「冷静じゃないよ。どうしたらいいかわからないんだ。そういったことでは何度も喧嘩したし、そのたびに相原は謝る。いつも本気で謝ってると思う。でも繰り返すんだ。俺に何かが足りないのかな?」
「そんなこと知らないよ。知らないけど、嫌なら別れればいいじゃない」
 坂下の言うことは最もだったけれど、水野は相原と別れたいと思っていなかった。何度も傷つけられたけれど、それでも好きだった。坂下にはとても言えないけれど、心のどこかでこうも思っていた。たかだか高校生の頃の、たった一時期の恋愛に過ぎないんだ。何も一生を添い遂げるわけじゃない。相原が可愛くて、ふたりでいるときに幸せなら、それで十分じゃないか。
「私の気持ちはどうなるの?」坂下が言う。「私は彼氏が取られちゃって、すごく辛い思いをしてて、でも悪いことした相原さんにはそれでも愛してくれる水野がいる。そんなの不公平だよ。なんで私ばっかり辛い思いをしなきゃいけないの?」
 それは君の価値観が他の三人とずれているからだ、と水野は思う。でももちろん口にはしない。世間に対して胸を張って主張できるのは、当然坂下の価値観の方だ。
「確かに悪いのは相原だよ。だから坂下は、相原のことを嫌ってもいいし、呪ったっていい。ここに呼びつけて殴ったっていい。相原を殴るのが嫌だったら、代わりに俺を殴ったっていい。気の済むようにしていいよ」
「じゃあ、水野が殴ってよ」
「誰を?」
「相原さんを」
「どうして?」
「だって、私はそんなことしたくない」
 どうしてそんな話になってしまうのかがわからず、水野は少し混乱する。
「でも、相原には苦しんでほしい、って言いたいの?」
「そういうわけじゃないけど……でもこのままじゃ不公平だと思う」
「わかった」
 水野は納得したふりをする。これ以上理屈を聞いても仕方がない。これは感情の問題なのだ。実際に殴らなくても、殴ったことにしてしまえばいい。
「そのかわり、詳しい話を聞かせてよ」水野は言う。「相原が杉山を誘ったの? それとも逆なの」
「よくわかんない」
「その話、杉山には確認した?」
「できるわけないでしょ?」
「じゃあ、誰から聞いたの?」
「……みんな言ってる」俯く坂下。
「ねえ、別に坂下を疑ってるわけじゃないけどさ、それって本当に起こったことなの?」
 坂下は顔を上げようとしない。その様子を見て水野は、杉山は相原と寝ていないんじゃないかと検討づける。とはいえ坂下が嘘をついているわけでもなさそうだ。きっと、真実ではないことが噂として蔓延しているのだろう。
 そもそも水野は話を聞いたときから怪しいと思っていた。そんなことが本当にあったなら、噂が自分の耳に入らないわけがない。それに相原だって、本当に『誰とでも』寝るわけではないのだ。彼女の中にも、彼女なりの一定の基準がある。
「大丈夫、たぶんその噂は本当じゃないよ。相原絡みではたくさんの噂に苦しめられてきたからわかる。杉山は相原と寝てない」
 安心させようと思って言ったのだが、坂下は不満そうな顔をする。
「それってどっちだって一緒じゃん」坂下は呟く。「どっちだって私の辛さは変わんない。水野みたいな鈍感にはわからないかもしれないけどさ」


 急に坂下のことを思い出したのは、職場で同僚の女性から相談を受けたからだった。彼女はとても有能で、強い使命感を持って仕事に臨んでいる。
 もちろん誰もが彼女のように、仕事ができるわけではない。能力の違う人たちが一緒に働いているのだから、ときに誰かの尻拭いをしなければならないときもある、水野自身にその役目が回ってくると、当然嫌な気持ちになる。でもそれをとやかく言っても仕方ないこともわかっている。
 でも彼女は納得できないようだった。周りに比べて能力が高いので、そのような役目を引き受けなければならないことが多かったというのも、納得できない理由のひとつだったのかもしれない。
 相談する彼女の話を聞きながら、水野はこう思った。もしかしたらこの子は、尻拭いをさせた人のことを罰してほしいと思っているのではないか。もちろん口に出してそうは言わないけれど、どこかそのような雰囲気が見てとれた。
 水野は話を聞きながら、半分上の空でいた。強烈な既視感を覚え、それが何だったのかを思い返していたのだった。そういった相談を受けるのは初めてではなかったし、彼女に限った話でもなかった。だからはじめは、職場で起こった昔のことと重ねあわせているのではないだろうかと思っていた。でも帰り道、いつものように空を眺めていると、急に坂下のことを思い出したのだった。
 坂下と彼女の置かれた状況はまるで違うし、重ねあわせて考えるには不適切だろうとはじめは思っていた。でも一度思い出しはじめると、記憶が溢れてくるのを止めることはできなかった。ふたつの出来事の関連性はよくわからないままに、水野はあの後、どんなことがあったのだろうと思いを巡らせる。
 水野は確か、相原に坂下と話したことを伝えたとき、殴られたことにしてくれないだろうかと頼み込んだのだった。
「なんで?」相原は言う。
「それで坂下の気持ちが晴れるならいいじゃないか」
「でも私、杉山となんか寝てないよ」
「知ってるよ。寝たとか寝てないとか、そういう問題じゃないんだ」
 相原は蔑むような目で水野を見る。そして小さな声で呟く。
「ムカつく。なんで水野がそんなこと言うわけ? ありもしない噂を立てられて、私むしろ被害者だよね?」
「そういう噂が立つのには、相原にも責任があるだろ?」
「そういう問題じゃない!」相原は叫ぶ。「ほんとに寝てて、それで恨まれるんだったら別にいいよ。私は私に胸を張れる。でも寝てなんかいなくて、しかも水野に殴られたってなったら、私は何に対して胸を張ればいいの? ただみじめなだけじゃない」
「じゃあ、このまま放っておく? そのあと苦しむのは相原だぜ?」
 相原は捨てられた子犬のような、悲しい目をする。水野は、何か取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれないと気づく。
「ねえ水野、味方になってよ。私が怒ってるときは、一緒に怒ってよ。私が悲しんでるときは、一緒に悲しんでよ。私のこと愛してるんでしょ? だったら……」
 そこまで言うと相原は、涙を一粒こぼした。水野は話の続きを待ったけれど、そこから先に言葉はなかった。
 水野は昔を思い返しながら、胸が締めつけられるような感覚に襲われる。時が戻せるのなら、あのときの相原に別の言葉をかけてあげたいと強く思う。
 でも、そんなことはできるはずもない。
 家に帰ってから、暗い部屋でひとり、相原のことを思い出す。この辛い気持ちをなんとか掻き消そうと、笑顔の記憶を探る。たとえば、誕生日にファンシーな写真立てをもらったときのこと。意外に思った水野に、相原はこう言ったのだった。思い出を飾るみたいなのも、私、いいなって思ってるんだよ。一応ね、女の子だからさ。
 これからどうするべきだろう、と水野は考える。どんな選択をすれば、あとで後悔をせずに済むのだろうか。本当は最善の策を探すべきなのに、そんな気持ちにはどうしてもなれないのだった。後悔したくない気持ちが何よりも優っている。自分は記憶のために生きているのではなく、あくまで未来のために生きているのだと信じたいが、でも実際のところはどうなのだろう。人はいつか死んでしまう。未来などなくなってしまうときがいつかは来る。そう考えると、美しい過去が何よりも大切なのではないかと、そんな気持ちにさらわれるのだった。


 公園で話をしてから、水野と坂下は少しだけ親しくなる。たとえば授業の合間に廊下ですれ違うと他愛もない話をする。相原のことが話題に出ても、坂下に恨んでいるような様子はない。水野に話したことで気が済んだのかもしれないし、あるいは宣言したとおりに殴ってくれたのだと思い込んでいたのかもしれない。
 坂下は(あくまで水野が聞く限りは)相原との一件がなくても杉山に愛想をつかしていたらしく、悪口ばかりを口にする。会うといつもセックスなんだもん、少し声を落としてそう囁く。
「だから、相原さんとのことも、たぶん杉山が悪いと思うんだよね」
「そうかな」水野は相原の話題になると、断定的な物言いを避けてしまう。
「きっとそうだよ。だって相原さんが、杉山みたいな馬鹿を好きになるわけないもん」
 どうやら女の子たちの間では、相原の尻軽さは、愛への誠実さという形で納得されているらしかった。水野は相原のことを、女としての才能を生かせる瞬間を見過ごせないだけなのだと思っているが、それを口に出したりはしなかった。
「でも相原さんって最後にはいつも水野のところに戻ってくるんだよね。そういうのって、素敵だと思う」
「俺が甘いだけだよ」
「謙遜しなくたっていいよ。愛してるんでしょ?」
 そう言われて水野は悪い気がしない。坂下と別れて廊下を歩きながら、水野は知らず知らずのうちに、ひとりにやけているのだった。
 そんな水野を見てか、あるとき黒川が近づいてきて言う。
「坂下さんと仲いいのな」
「ちょっといろいろあったんだ」
 水野が言うのを聞いて、黒川は少し難しい顔をする。
「どうした?」水野が尋ねる。
「いや、これは俺の想像なんだけどさ」黒川は声を潜める。「たぶんあれ、復讐だぜ」
「え?」
「坂下さんがおまえに話しかけるときって、いつも相原が近くにいるときじゃないか?」
「別に相原の悪口を言ってるわけじゃないさ。むしろ坂下さんは、相原と俺のことを応援してくれてるような感じだぜ」
「話の内容なんかどうでもいいんだよ。相原が見るのは、坂下さんとおまえが話してるって事実だけだ。たぶん相原は少しだけ傷つくと思うよ。なんかあの子の行動には作為を感じるんだよね。気のせいかもしれないけど」
「でも、相原とは坂下さんのことじゃ喧嘩してないし、あれだけ自分の気持ちに正直なあいつが何も言ってこないんだから、気にしてないと思うんだけど」
 黒川は力なく笑うと、小さな声で言う。
「ごめん、俺の見方が歪んでるのかもな」
 あのとき俺は何を感じていたのだろうと、水野は思い返そうとする。黒川の言うことにある程度納得していたのかもしれないし、あるいは根拠なく人を疑うことに対して嫌悪感を抱いていたのかもしれない。なんにせよ人の気持ちを外側から推し量ることはできない。黒川の言うように坂下が相原に対して恨みを抱き続けていた可能性だって、もちろんある。
 でも本当の気持ちになんか何の意味もない、と水野は思う。感情は人に伝わらなかったら、なかったことと同じなのだ。
 坂下の感情は坂下のものではないし、相原の感情も相原のものではない。水野の感情だって水野のものではない。判断は常に受け手に委ねられている。たとえば水野が心の底から怒っていたって、誰かに伝わらなければ怒りは存在しない。
 相原はたぶん、生まれた感情が自分の中でただ消えていくことに納得できなかったのだろう。だから感じたことは口にするし、出来る限り行動に移していた。水野はそれを大人げないと思っていた。考えてることが顔に出ちゃう性格だからと、まるで治すことのできない自分の欠点のように言いながら、その言葉に自ら甘える相原を、水野は冷ややかに見ていたのだった。感情を表に出すことで他人が傷つくかどうかくらい、少し考えればわかるはずなのだ。
 でも、今になって水野は思う。生まれては表に出ることなく消えていった俺の感情は、いったいどこに行ってしまったのだろうと。
 普段はそんなことなど忘れている。でもときどき、まるで探しても探しても見つからなかった何かが別のタイミングで不意に目に入るように、水野は昔の自分の感情に出会う。発見というより遭遇といった方が感覚に近い。
 それはマグカップに染みついている。それは針金ハンガーに染みついている。マウスのホイールに、駅の改札の羽根扉に、自転車の車輪の回転がライトを灯す音に染みついている。そして暗い夜空に浮かぶ月に染みついている。
 それは往々にして後悔の記憶だ。たとえば相原の裏切られたような鋭い目のこと。それは水野が相原に別れを突きつけた次の瞬間の表情で、水野は今になっても、その目に責め続けられているような気がしている。言えなかった言葉を、月の明かりが、水野の心の深いところから引き出そうとする。