エピローグ(もしここでまとめるとしたら)

友人の日記で知ったので
インテルの、デジタルブックレットを置けるところに
ブログのまとめを公開してみた。
チンコやらマンコやらと書きまくっているので
なんか、公開審議が通らないような気がしている。


ちょっとしたエピローグもつけた。
以下がそれだ。


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祈りと愛はよく似ている。これは感覚的な実感でもなければ、理論的に
導き出された答えでもない。俺がそう言い切ってしまえる理由は単純で、
あの女と生活を共にしはじめたからだ。
あの忌々しきホテル、ヴィラコスタには二度と訪れなかった。同時にホ
テルでの神々しい体験は過去として消え去り、一緒に暮らしてみたら、女
はなんてことない普通の女だった。普通のことで悲しみ、普通のことで喜
ぶ、ただの人間だった。
そして人間と人間だから、当たり前のように意見が食い違う。たとえば
女は、俺の書いた小説がときどき気にいらない。ひとつひとつのシークエ
ンスのつながりがよくわからず、世界の全容もはっきりせず、何が事実で
何が妄想だったのかも明示されていない、そのことに苛立ちを感じるよう
だ。当然、俺は反論する。ならおまえは世界の全容を把握してるのか?
現実でできないことを、どうしてフィクションの中に求めるんだ。
これは、ただの売り言葉に買い言葉ってやつだ。俺自身ももちろん、全
ての物語が辻褄のあった、美しい作品であれば、それに越したことはない
と思っている。でも一方で、それよりも大切にしたいことがある。


あるモデルが言っていた。ポーズを決めて、完全に止まった状態でよい
写真を撮ってもらうことはできない。大切なのは、次に何かをしようとし
ている、というその状態で、自分自身を留めることだ、と。つまりポーズ
に意思を込め、その意思を捉えてもらうのだ。
物語もまた同じだと思う。
強いベクトルを持った物語は、読者の中に違和感を残す。たとえ物語
が、物語として完結していなくとも、違和感として残った何かは必ず、い
つか読者の中で完結する。
そのときをじっと、待ちつづけたいと思う。


あなたはそれを、ただの希望だというかもしれない。でもその希望を手
放してしまったら、俺はいったい何を書けばいいだろう。


ある夜、ベランダに出てタバコに火をつけようとして、ライターがない
ことに気づいた。部屋に戻り、ハンガーにかかっている服のポケットを探
り、ようやく見つけ出したライターの、オイルが切れていないことを確認
しようと、火をつけた。
そこは寝室だった。女は既に眠りについていたので、部屋は暗かった。
そしてライターの火は問題なくついたのだが、俺はその火に見入ってし
まった。
ただの火だった。透き通る青とオレンジから成る、ただの火だった。


俺は多分、祈りつづけるだろう。人に、空に、木に、そして過去や未来
に。
そして、祈りがいつかどこかに届くはずだという希望を、手放すことは
ないだろう。
俺が消え去るその日まで、手放すことはないだろう。