祈り

 ノートPCの電源が切れるまでの二時間は、この騒がしいカフェで書こうと決めていた。夕方の五時、レジ前のコーヒーはクソ不味いデカフェしか残っていなくて、俺は最悪の気分でテキストを書いては、消していた。作業はいっこうに進まなかった。
 向かいの席には美しい女が座っていて、こっちをちらちらと見ていた。俺のことを知っているのか、あるいはPCのキーを叩く音がうるさいと思っているのか、どちらにしても興味を持たれているようだったが、その表情から何を考えているのかを読み取ることは出来なかった。気が散るので、出来るだけ見ないように心がけてはいたのだが、それでもやはり美しいものには自然と目をやってしまう自分が情けない。
 女に声を掛ける自分を想像しようとしたが、いつもと同様、うまくいかなかった。どう声を掛けていいかも分からなかったし、相手がどんな反応をするかも全く想像できなかった。常日頃、美しい女に対しては尻込みしてしまうようなところがあって、おそらくそれは、相手の第一印象に欠点がないからなんだと思う。相手の欠点が見えなければ、安心できない。欠けた部分が見えてはじめて、人間として認識し、相対することが出来る。それはおそらく、俺の自分に対する自信のなさからくる感情だと思っているだが、それでも話しかけている自分を想像しようとしてしまうのは、やはり美しい女への憧れがあるからなのだと思う。あるいは、美しい女と会話をしている自分への憧れなのかもしれない。
 短編小説の〆切は二週間後で、書かなければならない枚数は五十枚、普段の俺ならば簡単にこなせる仕事だが、今回は違った。はっきり言って、気乗りがしなかった。編集の男に義理がなければ、確実に断っていただろう。
 それはかつて俺が書いた長編小説の後日談を書いてほしいという依頼だった。映画化に合わせて、後日談を収録した短編小説集を売ろうという腹なわけだが、自分の中では既に終わった物語だ。何を書けばいいのか、何を書けば蛇足にならないのかが全く分からなかった。書いては消した全てが、余計だった。俺はその長編小説を、実のところ、かなり気に入っていたのだ。
 徐々に陽が傾いてくると同時に、カフェからは客が少なくなっていった。ステンレスのデスクを鋭角の日差しが照らし、濁った輝きを見せる。俺はその風景を文章化する。小説の主人公がおれと全く同じ状況で、俺と全く同じ風景を見ているのだと一時的に仮定して、まずは書き出すことにだけ専念する。テーマもなく、書くべきことのない物語を、なんとかスタートさせてみる。偶然によってストーリーが加速するというわずかな希望を抱きながら、そうしてできた小説が価値のないものになることを、俺は知っている。何のためにも書かれていない物語は、何の価値もない。とはいえ物語とは何のために書かれるのかと訊ねられたとしても、明確な答えを出すことはできない。しかし、何かのために書かれるべきであるということだけは分かる。何かのために書いているのかもしれないと、そう思えたときにはじめて、物語は深く、価値のあるものになる。それが、俺が三十五年の人生で唯一発見した、小説に対する見解だ。
 気づいたら女はいなかったが、テーブルには女のものと思われる白いバッグだけが残されていた。不自然なほどに長い影を落としているそれは、電車の中や街中で、何度も見たことのあるようなデザインだった。革のわずかな歪みから、使い込まれていることが見て取れた。俺はバッグの中身を想像した。化粧品ポーチ、手鏡、制汗剤、それから手帳。
 いざ想像してみると、外観から見られるボリュームを埋めるだけのものが列挙することはできなかった。見えているのに、見えていないもの。俺の脳から世界を再現しようとしたときに、データ不足で黒く塗りつぶされてしまう領域。女について描くことができたとしても、女のバッグについて描くことが出来ない自分の能力の限界に思いを巡らせると、まるで自分のしていることがひどく独善的な自己満足に過ぎないのではないかという思いがよぎる。もちろん、その理屈に対して理論的な反論を組み立てることも出来るはずなのだが、理論と感情は別物だ。感情を軽い絶望が支配してしまったその時点で、もう今日は書くのをやめたほうが賢明だろうと、俺はノートPCを閉じた。
 不味い上に冷めたデカフェを飲み干そうとカップに手を掛けたそのとき、少し離れた席に座っていた黒人の男が立ち上がり、女の白いバッグに近づき、脇に抱えて店を出ようとした。俺はとっさに席を立ち、男の腕を掴んだ。掴んでから、後悔した。もしかしたら、この男は女の知り合いなのではないか。あるいは忘れものを警察に届けようと、気を利かせたのかもしれない。だが、次の瞬間に俺の手を振りほどこうとした男の力には、確実な悪意が込められていた。必死で引き返すと、革の取っ手が歪み、俺は女の顔を思い出した。直後、黒人の男はすぐにあきらめ、店から逃げ出した。ドアに取り付けられたベルが、くぐもった音を立てて、やがて静寂がざわめきに変わった。
 すぐ近くの席にいた老婦人と目があった。ほほえむ彼女に対してわずかなリアクションを返したそのとき、バッグの中からけたたましい音が鳴り響いた。携帯電話だった。どうしようかと迷ったが、老婦人が顎でバッグを指し示すので、俺はできるだけ中を見ないように手を突っ込んで、携帯を探り当てようとした。
 堅く、冷たいものが手に当たった。そのあまりになじみのない感触と共に、指先から全身に寒気が伝わってきたので、俺は思わずバッグの中を覗いた。そこには拳銃があり、その隣で携帯電話の明るい光が明滅していた。何事もなかったかのように電話を取り出した。それはやはり、持ち主からの電話だった。話を聞くと、俺と同じホテルに泊まっているのだという。


 ホテルはカフェに隣接している。俺は通りを挟んだところにあるドラッグストアでエビアンを二本仕入れ、ホテル二階にある小さなレストランバーで女と待ち合わせた。
 女はすぐにやってきた。バッグを渡すと、人なつっこい笑顔を見せてくれた。笑うと幼く見えた。よかったら一杯飲まないかと誘ってみたが、やんわり断られた。気を悪くしないでね。でも、私まだ十七歳だから(もちろん驚いた)、バーでお酒を飲むときっと、あなたに迷惑を掛けることになるでしょ?
 拳銃については聞かなかったし、そこに興味を向ける必要も感じなかった。おそらく過保護な父親が持たせている、といったところだろう。だが、ひとつ引っかかることがあった。なぜこの女は、携帯電話を鳴らしたのだろう。バッグをどこかに置いてきたことに気づいた時点で、一番気がかりなのが拳銃の存在であることに間違いはないだろう。そして携帯電話はバッグの中に、それも拳銃の隣にしまいこまれていた。電話を鳴らせば、拳銃を見られてしまう。たとえ護身用だとしても、少々やっかいなことになる。そのことに気づかないほど、思慮深くない女には見えなかった。
 エレベーターまで一緒に行き、俺が六階のボタンを押すと、彼女は最上階のボタンを押した。煙臭い喫煙ルームと、上級スイート。ため息をつきたい気分だったが、俺を缶詰にした出版社に文句を言うわけにも行かない。言葉には責任が伴う。閉じこめてくれただけでも御の字だと思うべきだった。


 次に女に会ったのは三日後のことで、小説もある程度は進んでいたのだが、それはかろうじて小説になっているといった程度の駄文に過ぎなかった。
 あのときはありがとうございます、と背後から声を掛けられたのはホテルの前、タクシー乗り場だった。いいかげん煙臭くて部屋の臭いに耐えられなくなった俺は、ルームサービスを頼んで散歩に出かけようとしていた。お茶でもどう、と誘おうとして、やっぱりやめた。
 その直後、お茶でもどうですか、と誘われた。行こうか、ちょうど聞きたいことがあったんだ、と返すと女は、拳銃のことですか? と秘密の共有するように囁く。そうじゃなくて、と携帯電話を鳴らしたことについて訊ねてみたが、そっか、そういえば私、ずいぶん馬鹿なことしたんですね、と(おそらく)はぐらかされた。
 女が指定した行き先は、あの騒がしいカフェだった。誰かと待ち合わせをしているとのことで、時計に何度も目をやりながらも、俺の書いた小説についていくつかの質問を投げかけてきた。あの小説のあの出来事は、本当にあったことなのか。どうしてあんなシーンを書こうと思ったのか。登場人物がときどき脈絡もなくエッチなことをはじめるのはどうしてなのか。
 普段ならそんな質問をされるには嫌で仕方がないし、もちろん訊ねる方にも遠慮があるので、ここまでぶしつけな質問はしない。でも今回はそれを嫌と感じなかったし、できるだけ誠実に答えようと努力した。女が美しかったから、というのも理由のひとつではあるけれど、それ以上に拳銃と携帯電話のワンシーンが、ふたりの間に、そしてこのうるさいカフェに、何か特別な空気感を運んできたンじゃないかという気がしていた。たとえば、今まで誰にも話したことのないことを、口走ったりもした。ある長編小説(今現在、後日談に悩まされているあの小説だ)は、大切な人を失ったときに書きはじめたということ。小説の中で誰かが大切な人を失うこともないし、メタファーとして出てくるわけでもない。しかし、失ったからこそ書きはじめたことは紛れもない事実だし、いつも悩まされている、何のために書くのかという疑問が、その小説を書いているときだけは頭に浮かんでこなかった。失った人のために書かれていることが明確だった。でも、それが何故かと訊ねられても、答えはないのだ、と。
 女は言った。全てに答えや理由が必要なわけじゃないって、私も思う。理由なんかなく人を好きになったりとか、理由なんかなく人を殺しちゃったりとか、そういうのが人間だと思うから。答えや理由のある物語って、結局ただの作り物に過ぎないと思うから。
 女が俺の言葉を理解しているということが、言葉のひとつひとつの重みからよく分かった。そして同時に、この感性は早熟なのか、あるいはやがて失われてしまうものなのかを、ずっと考えていた。十七の女だった経験がない俺にとって、それは不思議な時間だった。今までに話をした誰よりも、言葉の意味が損なわれない会話だったのだ。


 女が待ち合わせていたのは、さえない男だった。彼女たちが去ってしまうと、ひとり残された俺は、今の体験について考え直していた。
 もしかすると女は、俺と会話していなかったかもしれない。俺が、意味の損なわれない言葉を交わしていたと勘違いしていただけだったのかもしれない。そして、女の言葉を拡大解釈して、自分の受け取りたいように受信していただけだったのかもしれない。今、救いを必要としている自分が、無意識のうちに自分を救うべく、たまたま目の前にいた女を神に仕立てあげたのかもしれない。
 仮に、自分がこの疑いを持たなかったとしよう(そしてこの小段落は存在しなかったと仮定しよう)。するとここまでの出来事は、現在の創作に迷いを感じている自分が、都合よく女と出会ったという体験になる。このあとに交わされる女との会話もまた、自分にとって何かを指し示す光となり、その希望がこの体験の意味となるのだろう。
 体験は記憶になる。それはイメージだけではなく、言葉として記録される。言葉である以上、それは物語である。
 体験する自分とは別に、記述する自分がいる。事象そのものはどこにも記憶されることなく消えていく。そして消えてしまったものを復元することは不可能である。
 記憶が事象の復元ではなく、作られた物語であるように、小説という作られた物語もまた、記憶である。不確かなものを復元しようとする試み、という意味において、記憶と小説は同義なのだ。
 ここで俺が女の神聖に疑いを持ったことで、この物語は様相を変える。女は現実にいた女である前に、俺が恣意的に復元した記憶なのだ。だからこそ、俺は俺の恣意に抗う。


 ホテルで女が何をしていたのか、という疑問はやがて解消されることになるのだが、まずは後日談を先に記しておこうと思う。
 ホテルでの缶詰から解放された後、しばらくしてから俺宛で編集部に手紙が送られてきた。感謝の気持ちを伝える簡単な文章で、おまけのように電話番号が添えられていた。
 こちらから電話を掛けたが、女は出なかった。それからまたしばらくして、ある日の深夜、向こうから折り返し連絡があったのだった。あたりさわりのない会話が続き、でも俺は女が何かを伝えたがっているのではないかと感じていた。世間話と何度かの沈黙の後、双子の妹がいた、という話がはじまった。
 妹は一年前に命を落としている。交通事故だったようだ。
 女にとって妹は非常に大切な存在だった。楽しいことも苦しいことも、全ての経験を共有することで、姉妹は共に二人分の視点で世界に接していた。「言葉の意味を知るタイミングも、興味を持つおもちゃも、自転車に乗れるようになった日も、全部一緒だった。いま考えるとおかしいんだけど、はじめてセックスをした日も、相手も、同じだったのよ。二人が別々の時に別々の体験をすることで、結びつきみたいなものが失われちゃう気がして、怖かったんだ」
 だから、妹を失ったときに感じたのは、悲しみよりも先に困惑だった。「二本の足で立つことが生きることだとしたら、私は一本の足を失ってしまった。生きたい気持ちはもちろんあったし、周りの人もはげましてくれた。でも、どうしても片足でうまく立つことができなかった。だから私がこうなってしまったのは、意志の問題じゃなくて、能力の問題なの」それから女は、ホテルのスイートで暮らしはじめた。特に目的のないままに時間をつぶした。それが女にとって、かろうじて『片足で立つ』ということだったのだ。


 〆切の一週間前になり、編集がホテルに訪ねてきた。書きかけの原稿を見せると、ゆっくりと読んで「いいと思います」と静かに言った。この男も、後日談なんか書くべきじゃないんだと分かっているんだろう。そして、それにも関わらずときに従わなければならないのがビジネスだということも。
「ホテルは〆切日の二日後まで押さえています。もちろん家に帰って頂いてもいいですが、ゆっくりしていってもかまいません」
 おそらく〆切を延長しなければならなくなったときのことを見越して、部屋だけ押さえておいたのだろう。こんなところでゆっくりできるかよ、スイートだったらまだしも、と言うと、編集の男も苦笑いを見せた。
「そういえば、ちょっと世間話をした人が、ここのスイートに泊まってたよ」
「スイートですか。このホテルだと一泊でだいたい、二十万から百五十万円くらいしますよ」
「そんなにするのか。若い女だったぜ」
「ああ」と編集の男は、何かを思い出したように言った。「おそらくそれはコールガールだと思います。ホテル代が百万と、女性への支払いが二百万、合計で一晩三百万って話を、聞いたことがあります」
「とんでもない話だな」
「お金を使っても使っても、使い切れないって人が世の中にはいるもんなんです。でも先生だって、十分にお金をもらってるじゃないですか。僕からすればうらやましいですよ」
 話をしながら、女がコールガールである可能性について考えていた。あれだけの美しさがあれば、金のある人間は三百万円くらい払いそうな気もする。でも、そもそもコールガールっていうのはホテルに出向くんじゃないか? どうしてホテルに住んでいるんだろうか。
 その疑問はすぐに明らかになった。その日の夜、眠れずにベッドに寝転がったままテレビを見ていると、ドアの隙間からメモが差し込まれたのだ。
 フロントで聞いちゃった。もし起きてたら、遊びに来ませんか? 最上階の、右側の部屋です。そう書かれた紙には金箔で装飾が施されていた。


 ドアをノックすると、バスローブを身に纏った女が迎えてくれた。
「お客さんがワインを頼んで、結局開けないで帰っちゃったの。誰かと一緒に飲みたいなって思ったんだけど、その誰かが思いつかなくて」
 女は自分がコールガールであることを隠そうともしなかった。少しまどろんだ目をした女は、なぜだか幸福そうに見えた。
「未成年がお酒を飲んだらまずいだろ?」
「うん」
 そう言いながら女はワインの栓を抜いて、グラスになみなみと注いだ。少しだけテーブルにこぼれた。その赤い色から俺は、血を連想した。軽く乾杯をして口に運ぶと、それは確かに赤ワインなのだが、アルコールを全く感じなかった。
「フロントが、よく俺の部屋番号を教えてくれたね」
「私、お得意様だから」
「ここにずっと泊まってるのか?」
「うん」
「金がかかるだろう」
「でも、週に二回はお客さんが来るからね」
「その金でここに泊まってたら、せっかく稼いだ金が全部なくなっちまうんじゃないか?」
「なくなっちゃうよ。でも私、お金を稼ごうと思ってるわけじゃないから」
「じゃあ、何のために?」
「時間が必要なの。だから、こうしてここにいるの」
 広く、美しい部屋だった。上品な香りがした。俺はソファーに座りながらも所在なさげだったが、一方で女はそこを自分の領域として全身をゆだねていた。あまりに自然だった。まるで俺が十七の少年で、女が随分年上かのような錯覚に陥った。
「いつからここにいるんだ?」
「忘れちゃった」
「いつまでここにいるつもりなんだ?」
「いつまででも。私がいいと思うまで、ずっとここにいるんだよ。そう決めたんだ」
 女は引き出しから巻き煙草のようなものを取り出して、火を付けた。不思議な香りがした。
「でもね、ときどきすごく寂しい気持ちになったりする。世間から取り残されて、人との繋がりが何もなくなって、もしかしたらこのまま消えちゃうんじゃないかって思う。消えたら消えたでいいなって思ってはいるんだけど、実際のところ、人って消えないのよね。寝て起きたら、きちんとベッドが体の形に凹んでるんだよね」
「それで、俺を呼んだのか?」
「そう」
 はだけたバスローブからは胸の谷間が覗いていた。俺は、客と女がこの部屋で戯れているのを想像した。それは下世話な行為などではなく、むしろ天上の儀式のように思われた。そして今の俺もそうであるように、この部屋で行われる全ては、何者かに許されたことによって生まれた特別な時間なのだ。あるいは何者でもないものによって許された、特別な時間なのだ。俺にとってそれは終わりのある有限の時間で、女にとってそれは終わりのない永遠だった。
 後にこの体験を言葉で記録したとしても、時間の持つ空気を復元することは不可能だろうと思った。でも確かにそういった時間が存在していたことを、思い出すことはできるだろうと思った。それでも俺の体験している有限と、女の永遠には大きな隔たりがあり、自分は女の側に絶対にたどり着けないだろう。それを残念だと感じると同時に、女の側にあるものが『価値』なのかと問われると、よく分からないのだった。
 女はワインを飲み干して、再び注いだ。なぜかもったいないとは思わなかった。俺が飲んでいるワインの方が、よっぽどもったいないような気がした。
「煙草を置いてきちゃったんだ。ねえ、もしよかったら一本もらえないかな」
「いいけど、これ、煙草じゃないんだ。二本の法律からするとちょっぴりヤバいものだけど、それでもいい?」


「祈ってるんだ」
「祈ってる?」
「うん、祈ってるの。ここでこうして暮らしながら、ずっと祈ってるの。これはね、祈るための時間なの」
「何か叶えたい願いごとでもあるのか?」
「違うよ。祈ることと願うことは違う。私はね、願ってるわけじゃない。ただ、祈ってるの。人はね、ときに願わずに祈るのよ」
「願いと祈りの違いって、何なんだ?」
「私にとっての祈りは、願っても仕方のないことへの願い。戦火に逃げまどう人が平和を願うとき、きっと戦火の現況となっている人も平和を祈ってはいる」
「もう少し、具体的に話してくれないか?」
「普通は未来のために祈りを捧げるでしょう? 世の中から戦争がなくなりますように。世界中の人が、幸せになりますように。でもね、私は違う。過去のために祈りを捧げているの。世界中の人が、幸せでありましたように、って」
「幸せ?」
「いま幸せって言ったのは、単なるたとえ話。実際には違って……もう起こってしまった不幸が、起こらなかったようにって、祈ってるんだ」
「それ、意味ないんじゃないか? 過去は変えられないだろう?」
「うん。直接的な意味は全然ない。だから、もしかすると私はすごく馬鹿なのかもしれない。でもね、ちょっとだけ思ってることがあるんだ」
「それは?」
「過去に向かって祈ることが、もしかしたら未来を変えるんじゃないかって」
「物語を書くことが、未来を変えるように?」
「うん。あなたが、そう信じていたいように」


 そう、俺は過去の幸せを祈っていた。


 失った大切な人が、幸せでありましたように。その祈りを物語に変えた。捏造ではなく、真実なんだという確かな感触を手放さないようにしながら、流れ消え去った事象を、完全に再現しようとしながら、同時に過去の幸せを祈っていたのだ。
 そうして生まれた物語が未来を変えるとするならば、それは過去の改編に他ならない。しかし、俺はそれを改編だとは思っていない。祈りなのだ。とにかく純粋で、とにかく真摯な、祈りなのだ。
「そんなに難しく考えることじゃないって分かってる。きっとあの人も幸せだったわよ、うんうん、とか、あの人もきっとあなたに感謝してるわ、うんうん、とか、そういった言葉で納得してしまえばよかったんだ。でも、私はそこまで自己中心的に考えられなかった。だからこそ、祈るの。できるだけ真摯に、祈りつづけるの」
 そう言いながら女は、拳銃を取り出す。その銃口を口にくわえると、安全装置を外して引き金に指をかける。ゆっくりと、指に力を込める。目を閉じたその表情は恍惚としている。まるで何かに同化しようとするかのごとく、体を空へと引き寄せる。幸せでありましたように。幸せでありましたように。何度も何度もつぶやきながら俺は、肌に感じる死の感触を、あいつのすぐ傍らにあった死と同化させ、そしてあいつの目を通して、恐ろしいほどに綺麗な世界を見る。
 やがて、天から啓示の光が降りそそぐ。