呪文と踊り

夕方、デニーズの店内で昔馴染みの女を見つけた。
話しかけるべきかどうか考えて、やめた。
三十分後には人と会う用事があったし
もし話しはじめたら、それだけではすまない。
別れるとき、あまりに時間が足りなかった
こんなことだったらただすれ違っておけば良かったと
そう感じるに決まっている。
と、そうこう考えながら女を眺めていると
やがて向こうもこちらに気づき、軽く手を上げた。
こちらからも軽く返事を返したが
そのあとすぐに、一人の男が手をズボンで拭きながら
彼女の席までやってきて座った。
そのタイミングを見計らって
店員がふたりのテーブルに料理を運んだ。


それから二時間後に連絡があった。
今から帰るところなんだけど、よかったら駅前でお茶でもどうですか?
さっきの男はどうしたのだろうか。
返信のメールを書きながら、出会ったらどうやって
会話をはじめようかと考えていた。
最後に会ったのはいつだったか
どうしても思い出せない。
向こうは覚えているのだろうか。


テーブルをはさんで座り、コーヒーがやってきて
それから聞いてみた。
最後に会ったのっていつだったっけ?
彼女は信じられないといった顔をして
本当に覚えてないの? 一緒にほら
バーで飲んでそれから…
あんなにヒドイこと言っといて全然覚えてないなんて
人間性を疑うよ。


ヒドイこと? どんな?


覚えてないふりをしたいんだったら、それでもいいけど。
別に、そんなに引きずってるわけじゃないし
正直、さっきあなたの顔を見るまでは
すっかり忘れてたしね。
いいよ、あれはなかったことにしちゃおうか。


そうしてくれるとうれしいけど。
とりあえず話を合わせてはみたが、本当に思い出せなかった。
自分の無意識が記憶を追いやってしまったのか
あるいは自分にとってそれは
覚えている価値のないほど些細な記憶にすぎなかったのか。




やがてふたりの話は行く当てもなく
まるで潮に流されるビーチボートのように漂流していたのだが
いつ打ち切られてもおかしくないような会話であったにも関わらず
それは長く続いたのだった。
会話を長引かせようとしているのは、こちらよりも
むしろ彼女であるかのように思われた。
会話は沈黙を産み、沈黙を会話で破り
ビーチボートがどこへ向かおうとしているのかは、一層不明だった。
そもそも彼女と仲がよかったかというと、そうでもないのだ。
ふたりで話したことなど数えるほどしかないし
ただ自分の幼馴染の男友達が
彼女の姉と付き合っていたのだという
それだけの繋がりだった。
4人でデートのようなことを何度かした。
もしかしたら手ぐらい握ったかもしれないが、そこに深い意味はなかったし
それ以上のこともなかった。
ただ、そんな浅い繋がりの中でも
彼女が自分自身の姉を強く憎んでいるということはよくわかった。
それは表面的な感情として現われ出るようなものではなかったが
言葉の端々から、決して注意深くなかったとしても十分に
感じ取ることのできるものだった。


姉の方に聞いてみたことがある。
君の妹は君のことをひどく嫌っているように見えるけど
それって勘違いかな。
姉は答えた。多分勘違いじゃないと思う。
私は一生恨まれても仕方のないようなことを
あの子にしてしまったの。
どんなことをしてしまったのかは、決して教えてくれなかった。




数少ない思い出のほとんどに彼女の姉が同席していたので
姉の話題を避けながら、思い出話が長続きするはずはなかった。
かといって彼女が (おそらく今でも)憎んでいる姉の話を
わざわざ持ち出すのも憚られた。
しかし彼女はまだなにかを話したそうに見えたし
自分としても同じ気持ちでいた。
核心的な話題を避けて話をしながらも
その核心的な話題が何なのかは、全くわからなかった。
彼女は昔と比べてもずいぶんと可愛くなっていて
そのことにも幾分、混乱させられていたのかもしれない。


大島のこと、憶えてる?
沈黙のあと彼女が言った。
もしかして、あれが最後だったんじゃない?
言われた瞬間に思い出した。
バーで飲んだのが最後ではなかった。
自分と彼女、それから彼女の姉の三人で、フェリーに乗って
東京都の南にある小さな島に出かけたのだった。
忘れるのが不自然なくらいに大きなイベントだったはずだけど
どうしてそのことを、まるっきり忘れていたんだろうか。
そもそもいったい
なんでそんな三人で出かけることになったのだろう。


お姉ちゃんの失恋旅行よね。
あなたも私も、無理矢理つきあわされたんじゃなかった?
彼女の姉の失恋旅行? そんなはずはない。
いくら無理矢理誘われたって
そんなのについていくはずがない。
でも三人で旅行に行ったという記憶は
次から次へと蘇ってきて、ひどく混乱した。


たぶん顔をしかめていたんだろう、彼女が言った。
あなたの人生はあそこで一度、リセットされているのよ。
だから、あまり記憶が残っていないの。
それは仕方のないことなのよ。
笑って返すべきかと思い、頬の筋肉を緩めたが
彼女の真剣な眼差しは、どこまでも真剣だった。




大島について。
そこは、海に囲まれた小さな島だ。
あしたば、と呼ばれる葉っぱが名産らしく
サラダだったりお茶だったりを売る店が
フェリー乗り場の付近に密集している。
実のところ、それが本当にサラダの店だったかお茶の店だったか
はっきりと憶えてはいない。
ケーキだったかもしれないし、饅頭だったかもしれない。
ただ、葉っぱが名産であるという記憶だけがはっきり残っていて
今でもスーパーに「あしたば」が並んでいると
フェリー乗り場付近の光景を思い出す。


他には岩肌の火山があり、海があり、それだけだ。
観光名所のようなものがさして用意されているわけでもなく
アスファルトの道路もあまりない。
信号だって、島中あわせて三つくらいしかないのではないだろうか。
島に行って、特別何かをしたという記憶はない。
でもそれが彼女の言う通り、リセットされたせいだとしたら
もしかすると伝説の剣くらいは抜いてきたのかもしれない。




そういえば、お姉さんは元気?
旅行の話題ついでに聞いてみた。
姉の話題を出さなければこれ以上先に進めない気がしたからだ。
でも、彼女は顔色ひとつ変えなかった。
あんまり会ってないんだ。
会いたいんだけど、いま何してるかも、分からなくて。


お姉ちゃんのこと嫌ってなかったっけ? そう聞くと
彼女は少しだけ笑って、言った。
そんな時期もあったけど、でもさ
これだけ長い期間会ってないと
そういう感情も自然に薄れていくよね。
今はただ、会いたいなぁって思うだけ。
いったい、どこで何してるんだろう。




あくまで彼女の想像の話だけど
姉はショウバーみたいなところで働いてる。
裸になったり服を着たり
あるいは男性客の膝の上に乗ったりしながら
時給三千円を稼いで暮らしている。
たぶん、お金を稼ぐことが目的じゃないのよ。
ただ音楽にあわせて、体を動かすことだけが目的で
お金がたくさんもらえるからそこにいるだけじゃないのかな。
踊っているその瞬間こそがあの人の人生で
それは過程じゃなくて、本質なの。
ほら、あの日『あなたが踊っていたみたいに』。


あの日?
そう。あなたがリセットした日。
いつ?
大島の夜のことよ。
踊っていた。
踊っていた。海岸で、月の光に照らされながら。
なにか、呪文のような言葉をつぶやきながら、とっても優雅に。
優雅に?
そう。憶えてるでしょ? 呪文と踊り。
呪文と踊り?
そう、呪文と踊り。




大島から帰ってきて次の日、姉は行方不明になったの。
連絡なくいなくなるのって
あの人にとって別に珍しいことじゃなかったから
みんな心配なんかしなかった。
でも、何日たっても帰ってこなかった。
私は思ったの。
あなたの呪文と踊りが、姉を
ここではないどこかへ
連れ去ってしまったんじゃないかって。
あるいは、あなた自身の一部も
呪文と踊りによって損なわれてしまったんじゃないかって。


そこまで話すと、彼女は立ち上がった。
でも、あなたは憶えていないのね。
姉をどこかへ連れ去ってしまった呪文と踊りは
もう、消えてしまったのね。




それから、一度も彼女には会っていない。




だが、彼女の姉を、街中で見かけた。
少し遠くで横顔を見ただけだから
本当に本人だったのか自信はない。


そこにはふたつの可能性がある。
姉は遠くの街にいて、自分は見間違いをした。
あるいは、姉は行方不明になどなっていなくて
あの日の彼女が嘘をついていた。


そして、どちらにしても残る、ひとつの疑問がある。
呪文と踊りとは、いったい何だったのか。




しばらくしてから、彼女からのメールがあった。
返信はしなかった。
でも、そのときなぜ返信をしなかったのか
しないことを選択したその理由が
自分でも、いまだによく分からない。

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sshimoda