消えた物語

てめぇに言ったって、どうせ聞いちゃいないだろうが、話さずにはいられ
ねぇから話す。よく聞けとは言わねぇが、近くにいてくれよ。そんくらい
の優しさを見せてくれりゃ、俺だって邪険にはしねぇさ。俺が疲れまくっ
てて3秒後には寝ちまいてぇような気分だったとしても、てめぇが
セックスしたくてたまんねぇときは、チンコのひとつやふたつ貸してや
る。ちょっとなら愛撫してやってもいい。
お前、物語を読んで感動したことってあるか? そんときの気持ち
よさって覚えてるか? いつまでもその世界に浸ってたいような、
そんな気分になるだろう?
俺もな、様々な物語にさんざん感動させられた。ガラじゃねぇが涙だって
何度も流した。でもな、最近は物語のよさってのがわかんねぇ。よくでき
た話に遭遇することはあるが、感動もしねぇし、なんつったらいいかな、
物語ってこんなもんだったっけ、って気分になっちまうんだ。
誰かがどこかで囁く。これは作り物だ。はりぼてだ。現実には何の影響も
及ぼしやしねぇし、何より物語は、書かれたときから先に動き出したりし
ない。それは停滞している。物語の中にいる間はまだいいが、一度そこか
ら離れると、全ての感傷は消え去って、俺の心にチリすら残さず消えちま
う。
いつからそうなっちまったのか、ずっと考えてたんだが、どうにも思い出
せねぇ。俺の現実の生活がなにか影響してるんだろうとは思うが、具体的
な問題点とその解決方法ってやつが思いつかねぇから、手のうちようが
ねぇ。
そんな中、俺にはチャンスが訪れる。あるテレビドラマの脚本家として抜
擢されたのだ。そこに至るまでにはとんでもない苦労があったけど、ま
あ、そこんとこの話は省略する。問題は物語を失った俺には、物語が書け
ねぇってことだ。
正確に言うなら、物語を書くことはできる。それはほとんどがテクニック
の産物だからだ。トラウマとその解消とか、挫折と選択とか、ライヴァル
の努力や悲しみとか、愛や友情と現実の矛盾とか、それから新しい視点で
描かれた美しいシーンとか、伏線や謎の短期回収と長期回収を織り込むと
か、そういう要素が詰まったプロットにキャラクター性を引き立たせるセ
リフを詰め込めば、まあ合格点と呼べるような脚本は完成する。でもそう
いった、技術だけで書かれた脚本が、俺にはすぐに見分けられるし、心の
底から大っ嫌いだ。それは俺に、なんも与えてくれねぇ。そして本当の意
味では、誰の心にも届いちゃいねぇ。
そういう意味合いにおいて言うならば、俺はひとつだけ、本当の物語と呼
べるものを書いたことがある。エンターテイメント性は皆無だから、決し
て読みやすいもんじゃねぇし、それが避けては通れない表現ってわけでも
ない。単にまだ技術の乏しかった頃の作品ってだけだ。でも、この作品を
完成させたとき以上に満ち足りた気持ちになったことはないし、今は、俺
の書いたものを面白がってくれるたくさんの読者を得たかわりに、ずっと
心の片隅に俺の物語を置いといてくれた、大切な、たったひとりの読者を
失った。


そいつはこの格差社会において、底辺に属する存在だった。正確に言うな
らば、あえて底辺に身を置いていた。反上層を主義に掲げたゲリラ組織
の、リーダーだったってわけだ。
こういっちゃ何だが、底辺にいるヤツらは、それなりの理由を抱えている
場合が多い。やる気のないやつ、与えられた保護に甘んじるやつ、文句ば
かりで動こうとしないやつ、それから、社会という形なきものに責任を押
し付けるやつ。そいつらはそろって被害者づらしている。反吐が出る。だ
いたい金を稼げないってことは、資本主義社会にいる資格がないってこと
だ。それはつまり、資本主義的な欲望を抱く資格がないってことだ。お
しゃれをすること、うまいものを食うこと、そういう気持ちは基本的に全
て、捨てなきゃならねぇんだ。だから俺は、底辺に巣食うヤツらが嫌い
だ。でも、あいつはそう考えなかった。
一流大学を出て営業の仕事についたそいつは、外回りの最中に公園で住む
人たちをみかけ、話しかけることを繰り返した。そしてそいつらのほとん
どがどうしようもない人間だということを知る。はじめは見下していた
が、やがてあることに気づく。彼らの思考回路は、ある一定の領域から外
側に動き出さないのだ。
つまりこういうことだ。自分はそいつらを見て、努力が足りないだけだと
思う。しかしそいつらにとって、どのように努力すればいいのかというこ
とに気づくことが、もはや思考領域の範囲外なわけだ。そして努力の方法
を他人に教えてもらったとしてもその努力が身を結び、最終的に自分に
返ってくるのだということを信じることができない。梅干を食べれば酸っ
ぱいのはわかる。全速力で走れば疲れるのはわかる。それらは全て経験的
なものだ。一度それを体感したからこそ、結果がわかる。でも努力して報
われることはわからない。経験したことがないために、結果が遠すぎて実
感できないのだ。
俺が奴らと話してて苛つくように、そいつも苛ついた。でもそれが能力の
違いであるならば、目の前に飢えている人間がいたときに、それを見捨て
るのは許されることじゃない。弱き者は、救わなければならない。たとえ
嫌がられても、同情する必要がある。それが彼女の行動原理だ。
彼女は、ある運動を行っていた。格差の下側に位置する人間に対して、税
金を振り分けるべきだと主張する運動だ。一方で、政府は金を、富める者
のもとに集めようとしていた。金は集まることで、はじめて力を持つから
だ。一億円のマンションを買えば、それは数年後に一億二千万の価値を持
つ物件になる。だが三千万のマンションを買っても、価値は年々下がって
ゆく。皆が少ない金を持っているより、大きな金をいくつかのところに分
配したほうが、結果的に国民の総資産は増える。そして税金が増え、やが
社会保障制度も充実する。考えてみれば当然の選択だ。
そういったなんやかやのことを、彼女はきちんと知っていた。だが、弱き
を救うという道を選んだ。なぜか。
システムと、虐げられる個人が存在し、互いの力が均衡していない場合、
善悪のバランスが崩れるということを、彼女は知っていたからだ。つま
り、なべて主義主張というものには、その内容がなんであれ、善悪という
属性は存在しないのだ。全てはあるサイドから見たときに善であり、ある
サイドから見たときに悪である。ということは、力に不均衡が生じたと
き、全ての視点から見た悪の総和は大きくなる。
彼女にとって、何が正しくて何が間違っているかなど、大きな問題ではな
い。自身を、均衡のための駒として捧げているからだ。文字通りの意味
で、彼女は善悪を超越したところにいる。そして、弱きのもとで戦ってい
る。


そんな女と二年間一緒に過ごし、俺は善悪を信じられなくなった。かと
いって自分の感情を捨ててまで、善悪を超越した思考を持てるほど強くも
なかった。俺には信じられるものが、何ひとつなくなっちまっ
た 。


なあ、教えてくれないか。
物語の書かれる意味ってなんだ?


それはただ溢れ出てくるもので、書きとめずにはいられないのだと言う者
もいる。だがそれって、河原に石が転がってるから、積み上げざるを得な
いって言ってんのと同じじゃねぇか?
いや、石を積み上げるほうがまだマシだ。少なくとも目指すべき高みって
のがはっきりしてる。物語は高みの定義すらはっきりしねぇ。


それは愛よ。女が言う。


そして、憎しみ。


何ものにも左右されない、強い意思。


ベクトルの向きは問題じゃない。
大切なのは、その強さ。


人はどれだけの、強い意思を持ちうるか。


世界も、人も、ただの器でしかない。


全ては、意思によって動くのよ。


おいおいおいおい、ふざけたこと言ってんじゃねぇよ。そりゃ単なる思考
放棄じゃねぇか。正しいと信じることができずして、どうやって人間は動
き出す? 俺はそんなふうに生きられねぇ。だから登場人物も、そ
んなふうに生きることはできねぇ。


できるわ。
だって物語は、フィクションでしょう?


現実で起こりうることしか
物語になり得ないのなら
そんなもの、必要ないわ。
現実があれば、十分でしょう?








強い意思を。


もっともっと、強い意思を。


俺は念じつづける。




いつか俺の物語に
強い意思は、宿るのだろうか。


それは大津波を起こすのだろうか。


それは、時空を歪めるのだろうか。


それは、届くのだろうか。

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sshimoda