世界の終わりのイメージスケッチ

急に自転車に乗れなくなったことを夫に伝えようと、急いで家に帰ったTは
一言目に、いったいどんな単語を発すればいいのだろうと
それを悩んでいるうちに、喋る気を失ってしまった。


縁道の意外な高さ、車の近さ
歩いているときには全く気にならなかった小さな障害物たちが
進行方向に数多く立ちふさがっていることに気づき
同時に気に掛けなければならないことの多さに目眩がした。
そしていままで、ほとんど無意識のうちに
なんて難しい仕事をこなし続けてきたのだろうと驚いた。


つまり無意識の仕事を意識が奪い取ってしまったことが
自転車に突然乗れなくなった原因なのだが
夫に説明しても理解してはもらえないだろうとTは思った。
大きな会社で若き係長として、順風満帆な人生を送っている夫は
自分の体験に基づく事実しか、認めようとしない人間だったからだ。


さて3年の後、Tは砂漠の真ん中にいる。
見渡すかぎりの星空と、遠い地平。
渇ききった白い砂が深く深く降りつもり
その遥か奥で、過去に吸い込まれた全ての雨が
砂の色素を完全に濾過している。


ビルが、線路が、ハイウェイが
そして一台のピアノが、地底で眠っている。
時すらも運動をやめた絶対零度の空間で
全ての予感が凍りついている。


Tはそれを足裏に感じている。
現実が想像にどこまで追いついているかを知るすべはないが
そこにいるのがTだけである以上
客観的に物事を捉えることは無意味だと、私たちは知っている。


あれ以来、Tの口数は極端に少なくなった。
適切な言葉がなかなか見つからず
見つかったところで、話す相手がその言葉を
自分と同じように認識しているだろうかと悩むうちに
いつも、タイミングを逃してしまうのだった。


この砂粒は、言えなかった言葉なのだと、Tは思う。
取り残された決断であり
口をつぐむしかない問いへの答えなのだと。


それらが街を取り囲み
それらによって、崩壊から救われてもいる。


Kはこのとき、はじめてロストを実感した。
腐りゆく大地を踏みしめても
人が石となり、風化していくのを眼前にしても
決して理解できなかったことを
想像上のイメージによって理解した。


見ることも触れることもできないものを
知ったところで、一体何になるんだと
夫に話したら、きっとそう笑われるだろう。
それでもかまわない、とTは思った。
人は皆、違うのだから。
そしてそれはもう、過ぎ去ってしまったことなのだから。


Kはいつか、明るい光が差す日のことを思い描く。
色素のある砂の間を
漏れるように通り抜けた細い光が
透明な砂の域に辿りつき、乱反射して
複雑が複雑を彩り、アートになる。


そして私たちはTの姿を
遥か空の上から見下ろしている。
透明な砂に埋もれているのは、実はTの方で
それは凍りつく一瞬前に見た夢の残響にすぎないのだが
そこにいるのがTだけである以上
客観的に物事を捉えることは無意味だと
私たちは、知っている。