ただそこにあること

明け方の街に生きるカラス。
奴らは私になにを伝えようともせず、ただ存在している。
私は(相当勝手なことだが)そのくちばしに意味を感じとる。


かわいいひとを見かけた。
埼京線、車内でのことだ。


リクルートスーツを着ていた。就職活動中だろうか。
艶のある控えめな茶髪は、うなじを隠すくらいの長さで、軽いウエーブがかかっている。
化粧は薄いのだが、チークを乗せた頬はとてもキュートだ。
少し気が強そうな口元に塗られたグロスは、はっきりしたピンク色。
猫目で、まつげが長く、その視線はまわりの世界を、誠実に捉えていた。


横顔から、目が離せなかった。
向こうも見られていることには、気づいていただろう。
特に避けるようなそぶりを見せはしなかったが
僕は、意識のベクトルを感じ取っていた。
居心地が悪かった。でも目を離すことができなかった。


手持ちぶさただったのか、ケータイをチェックしはじめる。
ディスプレイ近くに貼られたプリクラが覗く。
彼氏はいるらしい。


その日の埼京線は、よく止まった。
止まるたびに、思った。
今、声をかけるべきなんだ。
今、声をかけなければ、一生会えないかもしれないぞ。


でも、僕は声をかけなかった。
自分は声をかけないだろうということを、本当は知っていた。
次もし奇跡的に見かけることがあったら、声をかけるというルールを自分に課してみようか。
そのことが僕に与える影響について考えたが
考えるほどの重要性がないことは明らかだった。


小説にしろ映画にしろ音楽にしろ
可愛い人だってカラスだって、およそこの世に存在するすべてのものは
ただそこにあって、それだけだ。


ついでに言うならば、僕にとって
可愛い人の文学的価値は、すこぶる高い。