得た者の話

たとえばロストの兆候があらわれはじめたとき
ある男は、超能力が使えるようになった。


それは紙のような軽いものを一瞬の間、宙に留めるという
注意して見なければ気づかないような、ささやかな能力だった。
実用性は全くなく、かといって忘年会の見せ物としては、奇妙にすぎた。


だが、男はうれしかった。
一流企業に就職したはいいが、社内の能力戦争に勝ち残れるような積極性はなく
出世コースから外れるや否や、雑用ばかりをこなす生活を強いられ
日々に辟易していた30代の男にとって、この能力は
たとえ役にたたなくとも、神からの贈り物に思えた。


男の勤める会社はロストが進行するにつれ
次第に、形なきものを存在しない金で売買するようになり
事業内容を理解することすら、とても困難になった。
そんな中、男はというと
作業的な仕事をこなして余った時間を
能力を磨くことに費やしていた。


努力は彼を裏切らなかった。
能力を使えば使うほど
宙に浮かせることのできる時間は次第に長くなり
浮かせられる重さも、少しずつ増えていった。
男は中学高校と続けていた、陸上部でのトレーニングを思い出していた。
インターハイに出場し、惜しくも3位以内を逃したが
地元では一躍、時の人となり
美人ではないけれど聡明で、自分を誇りに思ってくれる彼女もいた
あの頃のことを、思い出していた。


やがて男は、もっと重いものを動かせるようになった、未来を想像するようになる。
社会的に重要な局面で力を使い、世界を動かすようなドラマを。


5年が過ぎ、男はタバコを十秒ほど持ち上げられるようになった。
その5年後、ゆっくりと動かせるようになった。
(動かすには、より重いものを持ち上げるのとは別の感覚を育てる必要があった)
さらに10年後、タバコ一箱を手元で踊らせることができるようになり
そのまた10年後には、文庫本を手を使わずに立ち読みできるようになった。


その2年後、男は車に跳ねられて死んだ。


能力は何の役にも立たなかった。
人の前で使えば怪しまれ
かといってとっさに使える重要局面に出くわすことなどなく
意を決して親しい友達に見せると、はじめは驚いてもらえても
すぐに飽きられてしまう。
年老いて、そこに費やした時間が膨大であることに気づき
比例するだけの何かを見いだそうとすればするほど
そこに意味などなかったということが、明確になるだけだった。


老いた男は死の少し前、ロストのことを考えていた。
皆、あれを期に何かを失った気がすると口々に語っていたが
自分は、人にはない能力を得た。
しかし長い時を経て思うに、自分こそが何かを失ったのではないか。
何か、取り返しのつかないものを。そんな気がする。


男はノートを開き
そこに失ったものを箇条書きにしようと試みた。
可能性を失ったのだろうか。
いや違う。
可能性を追わなくなったのは俺の意志だろう。
むしろ失ったのは、恐れだ。
可能性を追わないことへの、恐れだ。


俺は未来への恐れを失い、人にはない力を得た。
そう書くと、なんだか希望に満ちた人生のように思えた。




もちろん、何らかの力を得た者は他にもいるし
その中の何人かは、希望に満ちた人生を送った。
だがそれは、たとえるなら
(今はなき)東京ドームのホームベースに置かれた
野球ボールの中のような、小さな世界の話だ。


とてもとても、小さな世界の話だ。