架空についての考察

ずっと住んでいた部屋を追い出されたが文句は言えない。
所有権のない人間に、文句を言う資格はない。
正当な手続きを踏んで、ここで暮らしはじめたという記憶はあるが
それはあくまで記憶の話だ。真実ではない。


住む場所がないと訴えたら、黒服の男が案内してくれたのは、駐車場だった。
ビル内蔵型のやつだ。
番号を入力してエンターを押すと、機械音が鳴り
シャッターを開くと狭い空間が現われる。
そこには古びたパイプベッドがひとつと、前時代的な電気スタンドがひとつ。
非常用ボタンの位置を教えられる。
これで外に出ろということらしい。


ロストの瞬間、記憶がシャッフルされた、というのが
多くの人間の総意である。
つまり、俺が過去の記憶だと思っているほとんどは
別の人間の記憶が集合したものであり
俺の記憶もまた、バラバラになって、誰かの脳に宿っている。
細かな記憶の断片が繋がれる際
脳は勝手な辻褄合わせを行い、間の記憶を捏造したため
今、俺の頭に存在する数々のエピソードは
全く意味のないスクラップである。


ほとんど真っ暗な空間に閉じ込められる。
各部屋の仕切りは全くないので、閉鎖感は感じない。
人間の汗とタバコの煙が交じった
イヤな匂いが立ちこめている。
ガタガタと物音がする。
誰かが、部屋から部屋へと移動しているらしい。
外の空気が吸いたくなり、非常ボタンを押してみると
全く反応を示さない。
壊れているのだろうか。


硬いベッドに寝転んでいると
裸の女が、隣の部屋からやってきた。
20代の前半だと思われるが
それよりも若く見えるのは、痩せ細っているからだろう。
一晩2万円らしい。
体からはひどい匂いがする。
おそらく、何層にも唾液が塗りたくられているのだ。


シャワーを浴びにいこうと提案する。
彼女は1時間で2000円のレンタルルームのことを教えてくれる。
服がないのでシャツを貸してくれと言われ、着ているものを一枚脱いで渡すと
それを羽織って、下半身は全く隠れていないのに、気にする様子がない。


駐車場からの出方は彼女が教えてくれた。
私は自分の価値ある部分を切り売りしてるの。
それが今は、たまたま体ってわけ。
だって、それが人生でしょう?
そう言った彼女のセリフと、全く同じフレーズを
昔、本で読んだことがあった。
彼女のような人間が読みそうもない、厚い本だ。
ロスト以前は他の誰かの記憶だったのだろう。
俺の記憶だって、きっとそうに違いない。


俺は個人的に、ロストの瞬間、メモリーシャッフルにおいて
残りやすい記憶と、残りにくい記憶があったのではないかという
仮説を立てている。
なぜなら、同じような経験をした人間と、何度も出会うからだ。
逆に残りにくい記憶もあったに違いない。
ロストのあと、童貞や処女に、山のように出会った。
俺も、その一人だった。


レンタルルームは決して汚くなかったが
重たい空気に満ちているような気がして、セックスする気にはなれなかった。
シャワーだけ浴びて外に出ると
辺りはすっかり暗くなっていた。


塔に登ろうと言いだしたのは彼女だった。
歌舞伎町には、巨大な塔が立っている。
天にも届かんばかりの高さで、頂上は見えない。
壁面はオーロラ色で、異様な輝きを放っている。
(その色は錯覚かもしれない。他人が灰色と言ったのを記憶している)
ロスト後に建設されたものだが、その目的はわからない。
非常階段は警備が薄いの。すごいものが見られるよ。
彼女はそう言って、俺の手を引いた。


アンドロイドが耳を失ってから
そもそも人間の少ないロスト23では、人の声を聴くことがなくなった。
今夜のように人と話ができるのは、とてもうれしいことだったし
彼女は今まで出会った幾人かより、ずっと理性的だった。


アンドロイドが耳を失ったのは
ある波形が、プログラムのバグを引き起こすと判明したからだ。
その波形は、ロスト後に活動を開始したある音楽アーティストが
ヒットした2つのシングル曲に連続使用したことで有名になった。
それは女性の声のサンプリングなのだが
限りなく特徴のない肉声にも聞こえ
無機的なものが編集し尽くされた結果
限りなく肉声に近づいたようにも聞こえた。


ソースは、サンプリングファイルが山のように置かれた
管理人不明のホームページ、ナンバー189のデータだった。
フリー素材だったこともあり、その波形は様々な曲に埋め込まれる。
ダウンロード数は留まることなくカウントアップし
それらの曲のいくつかはリミックスされ
また、いくつかは切り貼りされ、別の曲の素材として使われた。


配布していたホームページは、数か月後になくなってしまうのだが
波形は、細分化され、もとの形を失ってなお
世に存在する無数の曲のなかに、生き続けた。


ロスト23では、かつて唯一の娯楽が音楽だったのだが
死を恐れたアンドロイドたちが、聴覚を放棄したため
今は、意味のある音自体が貴重である。
魂は確実に死んでいく。
望む、望まないに関わらず。


非常階段の警備は、時間域を飛ぶことで
楽々と潜り抜けることができた。
二人で、黙々と階段を昇り続けた。
下に広がる景色は、気づけば森に変わっていた。
広大な森を、厚い逆オーロラが囲んでいた。


女がいう。
私は昔、アンドロイドで、人間の子供を育てていたの。
その記憶について話を聞くのは、はじめてではなかった。


俺は、かつて森に火を放ったんだ。
その頃は、セセラギという名前だった。
奥深くに眠る記憶を掘り返して話す。
この話を聞くのも、彼女にとってはじめてではないだろう。


女は俺を押し倒し、上にまたがる。
腰を動かしながら、言う。
いつまたロストするかなんて、誰にも分からない。
この瞬間、またメモリーシャッフルされて
私たちがロミオとジュリエットになる可能性だってあるのよ。
だから、ファックなんてみんな同じ。
みんな等しくくだらないし、等しく尊いの。


女が俺の目を覗き込むと
俺は誰の記憶を通して、女を見ているのか分からなくなる。
誰を見ているのかすら分からなくなる。


女が、邪魔なシャツを脱ぎ捨てる。
それは風に舞う。
遥か彼方、逆オーロラの方へと飛んでいく。


幻の記憶が発する汗を吸い込んで
森とも滅びた都市ともつかぬ領域の上空を飛び
その布切れは、逆オーロラを越えるだろうか。
越えるといいのだが。