無題

保坂和志の本を読んでいるのだが、この小説が物語を期待してはいけない類のものだとわかっているので、急いで読むことをせず、他に読みたい本が出てくると中断してバックの底に眠らせておく。読む本がなくなるとまた取り出して読みはじめる。そんなことを何度も繰り返している上に、バックの中には同じような位置づけの本がもう一冊あって、つまり僕の頭の中には中断された世界が複数あるわけだが、それでもなお、読者(世界)をいつでも再開させられるという自信があるのはなぜかというと、本を読んでいるときの、指の間に感じる、ページの厚みがよりどころになっているのではないかと思う。読書の中身と物理的に結びついている、厚みという進行具合が、分断された二つの地点を結びつける大きな役割を果たしているのではないか。
ドラマがいつも、前回ラストシーンのダイジェストで始まるのは、あの物理的な痛みがないからであって、同じように考えてみると、週刊誌の漫画などは、粗筋を脳内でつなぎながら読むことはできても、空気感をつなぐことはとても難しいと気づく。
最近はRPGを携帯ゲームで遊ぶ人も多く、それに即して、どこでもセーブ出来るという機能がついていることも多い。だけどダンジョンの途中でセーブしてしまうことで、確実に空気感は分断され、連続すれば存在していたはずの面白さが、消え去ってしまう。
そもそも世界を分断することがおこがましい行為といえる。かといって小説を一気に読む人は割合として少ないはずなので、分断し、各々の中で保存され、されながらに変化し、変化したものと接続されて新しい世界が形成されるという、遍歴を、宿命として抱えているというだけで、物語全般の見方が変わって面白い。