脳化社会とデスノート

中田みたいな、考えることもできるスポーツ選手や
坂本龍一のような文化人がかっこよく見られる現代で
ジャンプっていう雑誌が格闘→推理と
題材を移し替えてみたのは、正しい実験だと思うのですが
いくつか、思考に抜けがあったみたいです。
その証拠に、最近デスノートがつまらない。


まず、頭が良くなるのは、強くなるほど簡単じゃない。
修業をして強くなった、ってみたいに
俺は『精神と時の部屋』で勉強したから
おまえの推理力を凌駕する、ってわけにはいかない。


また、強くなった者同士の戦いは理解できても
頭が良い二人の思考戦は、読み手が理解できない。
だから、高度な戦いをしているように見せながら
実際に戦いの激しさを増すわけにはいかない。
この辺がたぶん作者のジレンマで
本当はもっと面白くできる実力のある人だと思うんだけど
この枷が邪魔してるのかもな、と感じています。


この辺の手が封じられても
他にも方法はいくつかあるのですが。


たとえば、仲間の要素。
デスノートは、意図的にか、これを捨てている。
第三勢力の台頭〜状況の変化。
デスノートには、はっきりと隔離された勢力が存在しない。
それから、時間の圧縮。
数秒を長く描写することで、戦いの激化を描けるが
これ以上、字を増やすわけにはいかないし
そこに来て、物語の作者が、絵の想像力に乏しい。


ルールの追加。
これはLとの戦いで、終わっちゃってる。
ルールの変更。
変更するには、かなり複雑すぎるか。
ゴールの追加と変更、中継地点の追加。
この辺が、妥当な手段ではあるか。