ヴィラコスタ2102


隣の部屋に、女が住んでいる。
ホテルに住んでいる、ということ自体が珍しいのだが
その女は、外出する時間も不定期で
仕事を持っているようには見えない。
まだ若く、しかしながらその落ち着いた様相は
年齢を推察する僕を混乱させる。


普段、他人と接触することなどまずない。
廊下ですれ違った人の顔も、たちまち忘れてしまうのだが
その女の香水の匂いだけは覚えていた。
控えめな甘さの後に、スパイシーな余韻が残る匂い。
すれ違った直後に、自分の部屋の扉を開け
扉に寄りかかりながら余韻に浸ることが、何度もあった。


はじめて顔を認識したのは
女が廊下で泣きはらしていたときのことだった。
化粧は激しく崩れていたが
それはあたかも、崩れたメイクとして完成した作品のようだった。
一度は通り過ぎ、自分の部屋に入った。
いつものように誰かが洗ってきたグラスを取り出し
冷凍庫から、氷を三つ取り出し、グラスに落とした。


このまま普段のペースを崩さずに
ウィスキーのロックを作り、廊下の外をうかがって
それでもまだ、そこに女がいたら
話しかけよう、と思っていた。
マッカランを静かに注ぎ、ゆっくり5回ステアして
一口味を見た後に、扉を開いた。


廊下をのぞき込むと、女の部屋のドアは
静かに閉じるところだった。
僕はそれを見て、少しだけ考え
そして自分の部屋へと引き返した。


___


外に出るには、多少の手続きが必要になる。
申請書を所定のメールアドレスに送付すると
そのおよそ5分後に、許可のメールが送られてくる。
そうしてやっと、1階のSPが心を許すのだ。


その日のSPは、若い男だった。
研修中のため、近くにはベテランが控えているらしい。
もちろん逃げ切れるとも思っていないので
友好的な会話をしながら「やまや」に向かう。


ふと隣の女のことが気になり
このホテルに、他に住み着いているような人はいるのかと
SPに質問を投げかけてみた。
ヴィラコスタは高級ホテルなので、もし住んでいるような人がいるなら
相当なセレブリティでしょうね、とSPは言う。
あるいはセレブリティに囲われているような人も、いるかもしれません。
自分も、若い女性を何度か見かけたことがあります。
いらぬ好奇心は持たない方がいいと、先輩に忠告されているので
特に調べたりはしていませんが。


久しぶりにワインを買うと
あれ、今日はウィスキーじゃないんですね、と言われる。
はじめて着いてきた男に、自分の趣味を指摘されて驚いたが
熟練のSPは、対象の趣味なども把握していて当然なのかもしれない。
ささいなことから、命を狙われるきっかけが生まれるかもしれないし
あるいは僕が、ワイン瓶を武器として
ヴィラコスタ脱出の計画を練っているかもしれない。
よく知っているね、研修生にそれとなく言うと
いやあ、先輩が言ってたんですよ。
あの人、対象者の観察が趣味みたいなところがあって。
いいかげん、聞き飽きてるんですけどね。
などと、純朴な青年のふりをする。


帰り際、やはりウィスキーが飲みたいような気分になり
コンビニに寄って、サントリーの角瓶を買った。
よければお好きなものを言ってくだされば
買って届けますよ、と研修生に言われたが
そこまで甘えるつもりはないし、そんな立場でもない。
この状況にあぐらをかけばかくほど、特に深夜になって
強い自己嫌悪に陥ってしまうのは明確だった。


___


久しぶりの角瓶を味わっていると
廊下から喧噪が聞こえてきた。
どうやら女と男の喧嘩らしく
泣きはらしていた女の顔をふと思い出し
グラスを片手に、扉を開いてみた。


僕が見たのは、去っていく男の後ろ姿と
赤いドレスを着た女の、やはり涙に濡れた顔だった。


一口くれる? 女に言われ
グラスを差しだすと、女は息をつく間もなく
一気に飲み干した。
響? そう訊かれ
いや。でも、日本のウィスキーだよ、と答え
一瞬、胃から何かがこみ上げてくるような仕草をして
そのまま女は、自分の方に倒れ込んできた。


女の部屋のカードキーが見あたらなかったので
自分の部屋へと担ぎ込むと
女は、トイレへと駆け込んで、中から鍵を閉めた。
やがて嗚咽が聞こえてきた。
しばらく待ったけれど、出てくる様子がなかったので
煙草を持って、一階に下りることにした。


ロビーには喫煙スペースがないので
外に出て、煙草に火を付けた。
すると、研修生のSPがやってきた。
逃げ出さないかを監視しに来たのだろう。


部屋では吸わないんですか? そう訊かれ
いや、逃げ出すつもりはないよ。安心してよ。
ちょっと気分を変えたかったんだ。そう答えると
SPは寒そうにしながら、じゃあちょっと缶コーヒー買ってきていいですかね
お願いだから、逃げないでくださいよ。と言った。
分かった。顔をつぶすようなことはしないよ。
そう言うと、研修生はホテルの中に駆け込んでいったが
どうせ逃げようとしても、先輩とやらが近くにいるんだろう。


戻ってきたSPは、缶コーヒーを開けてから、言った。
書くつもり、ないんですよね。
だとしたら、こんなのっておかしいと思いませんか?
このホテルを抑えつづけるお金も、相当なものだろうし
自分たちの給料だって馬鹿にならないですよ。
どうして彼らは、こんなこと続けてるんでしょう。


僕は言う。
経済って言うのは、冷静に考えればおかしいようなことが
平気で起こってしまうような仕組みで成り立ってるんだ。
僕も君も、経済の中にいる限り
そういった不思議な現象に巻き込まれてしまうことがある。
でも、そんなことは考えてもしょうがないんだ。
目の前にある仕事をする。そうすればお金がもらえる。
日々の生活ができる。それでいいじゃないか。


若い男は、何も答えなかった。


煙草を吸い終わり、部屋に帰ると
女はいなくなっていた。
書き置きのひとつも、残されていなかった。


机の上に置いてあったノートが開かれていたが
何も書かれていないページだった。
僕は、静かにそれを閉じ
服を脱いでベッドに潜り込んだ。


隣の部屋にいる、女のことを考えた。
酔いつぶれて寝ているのだろうか。
あるいは枕を涙で濡らしているのだろうか。


街では、またひとつ小さな区画がロストしたという。
自分はこのヴィラコスタで、少しずつ年をとってゆく。
まともな頭を持った人間は、とうの昔に東京を抜け出し
そこで経済活動を営んでいる。


このホテルは終着点だ。
時は終わり、そして時計と時が分離した場所だ。
ここより先に、世界は存在しない。
ゆっくり消えながら
消えゆく風景を眺めながら
意味を失った時計の針を
ただ静かに、進めていけばよい。