創作について


平田オリザがどっかで言ってたことまとめ。


 真・善・美の判断は受け手にゆだねるべき。
 現代音楽や美術では、それを研ぎ澄ますことができる。
 しかし、演劇はなかなかそうならない。
 なぜなら【関わる人数が多いから】
 関わる人数が多いと、たいてい薄まっていくものだ。



岡田利規の書いてたことまとめ。


 意識して創作された感情は、感情ではない。
 感情を演じたものに過ぎない。
  → 怒ったマネと怒った演技は違う。


 感情はイメージに付随して出てくる。
 言葉はさらに後から出てくるもの。
  → 雨の路地裏。なんか知らんが殴られた。
  → 次に感情。
  → 次に言葉。


 感情そのものを意識してはならない。
  → 怒ったときの、言葉の発し方について
    考えることは間違っている。
  → 脳内にはイメージのみがある。


 表現が豊かであるために
 イメージはノイジーであるべき。
  → 着ているスーツの値段。
  → さっき食ったラーメンの味。
  → 飛ばされた傘の場所。
     → 人間の思考ってのは元来ノイジー
       だからこそ人は豊かに表現する。


◆そして、自分の考えたこと。


 では本を作るって行為は、どうたどられるべき?
 イメージから一部を切り出し、別のイメージと足し算し
 さらに足したり引いたりいろいろしてできたイメージから
 言葉を引き出してくる作業なの?


 三月の5日間であれば
 イラク戦争が5日で終わると思っていた、という
 自分と戦争の曖昧な接触点みたいなものがあって
 それをラブホでうんぬんっていう別のイメージとか
 パフォーマンスとか何とか、いろいろから、言葉を引き出す?


 自分の話。


 ブログに短い文章を書くようなときでも
 どうしても譲れない部分っていうのが、自然と出てくる。
 ある部屋の中の人物について書いていて
 このときに部屋のテレビはついているべきか否か、って問いには
 絶対に答えがある。
 でも、不思議なことに、テレビについて意識する前までは
 そんなこと、少しも考えちゃいない。
 なんかの拍子で考えてみたら、ちゃんと答えはある。
 でも、考えるまで、テレビは存在すらしていない。


 ってことは、テレビがどうなってるかっていう事実が
 重要って訳ではなさそうだ。
 むしろ、テレビがついていると壊されてしまう「何か」が
 そこにはあるってことだろうか。


 人じゃなさそうだ。
 なんだかそれは、空間っぽい。


 仮に「空間」と名づけよう。


 重要なのは、空間を守ることで何を得られるか、ってことだ。
 なにを表現できるのか。
 なにを表現したいと思っているのか。


 自分はどちらかというと「人」を書こうとしている。
 それはできたものを見れば明らかなんだけれども
 そのために「空間」を守っている。


 ちょっとかっこよくまとめれば
 主観から「空間」をみたときのイメージを
 守りたいのかもしれない。


五反田団の人が言ってたこと。


 かっこいいセリフで、噛んじゃうのが好き。
 噛んじゃうって事象は、かっこいい決めセリフであっても
 またどうでもいい場面であっても、平等に訪れるべき。
 とにかく誇張しない。



◆もう一度考える。


 創作っていうのは、作り物だ。
 現実じゃない。
 でも、人はそこに現実との接点を感じる。
 だからこそ、感情を動かされる。


 誇張され、言語化された感情は
 すでに意味と価値の重さが決定してしまっている。
 それは、いっとき涙を誘うかもしれないけれど
 簡単に整理され、忘れ去られてしまう。


 そういった「人間としての有りよう」に
 現実との接点を感じるべきなのだ。
 言語化された感情は、既に感情ではない。


 しかし、せっかく創作なのだからというところで
 世界の側はどこまでも羽ばたくことができる。
 滅亡したっていい。


 でも。


 かかとを三回鳴らしたら、インドネシアにいる。
 もう一度、三回鳴らしたら、日本に戻る。
 この海外旅行に、旅行の実感はあるか。


 寝て起きたら、核ミサイルが爆発していて
 辺り一面、死の灰が降り注いでいたとしたら
 (もちろん現実に可能性としては起こりうるけれども)
 その滅亡に、実感はあるか。


 つまり、世界が羽ばたくのは自由だけれども
 人をゆっくりと連れて行かねばならない。
 (あるいは、納得性のある突然で)


 そして、そこが受け手にとっての現実に
 近くありつづけるために
 全てにおいて、誇張をしてはならない。


 嘘をついてはいけない。




 ああ、嘘だらけだ。


 なんだか救いようのない世界にいる気がする。




◆ゲームなら。

 作るべきは「イメージ」の側。
 ユーザーの感情を勝手に定義してはならない。


 イメージってのは
 レベルのことだ。


 しぐさは、ひとつのヒントかもしれない。
 ユーザーのしぐさを、イメージする。
 そこにあるべき「画面」を想像する。