さよならマジック

ドトールでコーヒーを飲んでいると、隣の席に座っていた男の人がトラン
プを落としたんだけど、どうやら気づいていないようだったので、私はそ
れを拾ってあげようと、体を屈めて手にとった瞬間に、今まで私が手にし
てきたトランプと比べて、かなり重たいことに気がついて、でも返すとき
そのことに触れるべきか触れないべきか、考えあぐねているうちに、不自
然なほど長い時間トランプを持ち続けていることに気がつき、ちょっと頬
が赤くなっていたかもしれないと、考えはじめるとその時、その瞬間、私
の方を見た男の人が、何を考えているのだろうかということが無性に気に
なったのだった。
後に彼と世間話をする仲になって知ったことなんだけど、彼は私よりも十
歳近く(正確には九歳)年上で、でもそんなふうには見えなく
て、どちらかというと甘えている節さえあった。これといって特徴のある
顔ではないのだけれど好感が持てた。昼の1時から2時までの
間、彼はそのドトールにいて、私も週の半分はそこに通い、マジックを見
せてもらった。一日に、ひとつずつ。少しだけ重いトランプは、どうやら
仕掛けのあるものだったらしい。


これは彼と私と、マジックの話だ。


マジックには誰かが提唱した3つの原則があるらしく、ひとつは見
せる前に何が起こるかを伝えてはいけないということ、それから同じ場所
で同じ人に、同じマジックを二度見せてはいけないということ、最後に、
種は絶対明かしちゃいけないということ、これは彼が一番はじめの日に教
えてくれたことなのだけど、そのなかば宗教的な響きが私を、魅了した。
世のマジックを志している人間が全て、それを戒律のように守っていると
いう事実、そして彼らの技術は修練なくしては為し得ないもので、修練と
は基本的に孤独な作業であること、夜中にふと想像してしまう、鏡に向
かってトランプを繰っている彼の姿、私という観客ができたことで、彼の
練習時間が増えていないといいのだけど、それはともかく、私は、マジッ
クを披露してくれる彼の、目が好きだ。
そんな彼の目が、今までないほどに輝いたその瞬間のことを、私は見逃さ
なかった。そのときテーブルの上には一枚のトランプが乗っていて、それ
が何のカードであるかを、私は何度も確かめ、完全な自信を持って、この
カードは移動も変化も消滅もするはずがないと思っていたが、マジックと
いうのはたいてい、予想を外れた部分で不思議なことが起こるもので、そ
う、これから起こる現象を読ませないところから、彼らは最深の注意を
払っているのだ。
言われるままに目を閉じながら私は、様々な可能性に思いを巡らせてい
た。


その可能性は全て、存在しうる。


彼はそう言って、カードを切った。その心地良い音が私を満たす。たとえ
ばまったくカードと関係のないことが起こるんじゃないかと、私は思いを
巡らす。たとえば店の中の客が全員、消え去ってしまうとか。不可能じゃ
ない。事前に自分の知り合いで店内を満たしておけばいいだけだ。もちろ
んそんな大変なことをわざわざするとは考えにくいけど、でもそういうと
ころにこそ落とし穴はある。


全ての可能性は存在しうる。


さて店内にはどんな人がいただろう。全然覚えていない。そのとき私は、
ざわめきが消えていることに気づく。コーヒーの香りがしないことに気づ
く。でも、まだ目を開きはしない。足が小刻みに動いているのを感じる。
私は震えていた。私は恐れていた。


可能性の中に、置き去りにされるのが恐かった。


でも、遅かった。私が触れているのは既にテーブルの上のトランプじゃな
く、自分の膝だった。何か得体のしれない生ぬるさが、手の平から腕を駆
け上がってきて、風が頬を撫で、それが湿っていることに気づき、全身の
毛穴を開いて違和感を体内いっぱいに取り込むと、その違和感が、私の瞼
を内側から開かせた。


可能性の中で、私は海の上にいた。木の椅子に座ったまま、静かなさざな
みによって上下に揺られながら、私は14歳の少女だった。運動部の
掛け声と、吹奏楽部の楽器の音が聞こえた。水平線の揺らぎがそれらをま
とめあげ、ひとつの音楽へと変えていった。


バッハだ、と私は思う。でもどうしてバッハなんだろう。私は私の記憶の
なかに、この曲が存在しないことを知っている。同時にこの曲が紛れもな
くバッハであることを知っている。これは彼の記憶? あるいは人
類の誰もが不思議な体験をするときに耳にする定番曲なのだろうか。


バッハが転調すると同時に、椅子が考えうる限り最も暴力的な姿へと変貌
し、それは容赦なく、股の間から体内へと侵入してくる。抵抗はできな
い。縛りつけられているからだ。トゲトゲしい痛みが私の体をひっかきま
わし、すっかり空っぽにしてしまうと、私は私ではなく、椅子の側の視点
に立っている。そして海を切り裂き、飲み込み、これ以上ないくらいの大
音響で吼える。私の息が切れてもなお、彼は吼え続ける。苦しみのなか
で、生まれなかったはずの顔が、私を取り囲む。


目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。


ドトールで急に倒れこんだ私を、近くにいたおじさんが発見し、そのおじ
さんが胸を揉みしだいているのを店員が発見し、警察に通報しつつ、救急
車を呼んでくれたらしい。マジシャンはいなかったという話だ。


彼は何者か。
そして私は、何を見たのか。


彼が再びドトールにくることはなかった。彼を探し出したかったが、手が
かりは全くなかった。


幻覚のなかで14歳だったという確かな記憶から、自分が中学生だっ
た頃の出来事と何か関連性があるのではないかと考えたが、その瞬間、14
歳以前の記憶が全て失われていることに気づき、愕然とした。



さてこれから私が全ての失ったものを取り戻すまでの間、実に30年
の年月を要するのだが、その間、失われたものを求め続けていたかという
とそうでもなく、出世して、結婚して、子供ができ、家を買った。たとえ
ば14歳以前の記憶がないことで不便だったことはというと、思い出
話のときぐらいのものだった。
彼はどうして、14歳までの私を奪っていったのだろう。彼にはどん
なメリットがあったのだろう。


たとえば。


心のなかに蓋のようなものがあって、それはマジシャンの彼から、私の記
憶の14歳から15歳の間へ、移動してきたのかもしれない。そ
れは人から人へしか移動しないため、私に押しつけるより他に方法がな
かったのかもしれない。その蓋は、私の中のエネルギーの流れを変え、結
果的に私は、バッハを弾けるようになったのかもしれない(喪失後
の私は、驚くほどうまくピアノを弾けた)。


たとえば。

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sshimoda