黒い煙(イメージスケッチ)

遠い山の向こうに黒い煙を初めて見たのは
小学校一年生のことで
そのとき一緒にいたN先生は、多くを語らなかった。
良くないことが起こると、黒い煙が立つ。
それは雨のあとに虹ができるように、当たり前の自然現象なんだ、と。


それは、科学の面白さを知りはじめた幼い僕を
納得させる説明ではなかった。
いったい何が、どうやって煙を作り出すのか
正体は何なのか、それが知りたいんだと
たぶん稚拙な言葉で、訴えたんだと思う。


僕はもともと、記憶力の良い人間ではない。
だからこのときの状況を詳しく覚えてはいないし
実を言うと、N先生の顔もはっきり思い出せない。
だけど、N先生の答えは覚えていて
一言一句とまではいわないけれど
意味するところのすべてを、思い出すことはできる。


先生はこう言った。
理由の分からない現象など、たくさんある。
海ができた理由、木々が生い茂る仕組み
5本の指が別々に動くカラクリ、初対面で人の性格を予知する力。
もちろん調べれば知ることができるものもあるし
まだ理由が解明されていないものもある。
ただ、知らなくても生きていくことはできる。
そして、知ることが、良い結果をもたらすとも限らない。
どちらにしても、知るべきとき、知るべきことは、自然と知るものだ。


僕はいまでも、この教えを信じている。
だから黒い煙について、しっかりと調べたことはなく
大人になっても、人が屋外で死んだときに立ち上るものだ
というくらいの知識しかなかった。


今になってすべてを知ったのは
僕が人を殺したからだ。
瞬時にして四方から集まったカラスが
死体の肉をついばみ、次々と空へ上っていく。
無数の羽は風を巻き起こし
僕の髪は逆立って毛根を刺激した。
風を避け、見上げた僕の目には
反重力的に浮遊する、水滴たちが映る。
黒い翼の隙間から、宙にきらり輝くのが見える。
理由は、分からない。
この美しい輝きを目にしてなお
知る必要があったろうか。


カラスは水滴と、猛スピードでぶつかり
水滴が弾けるときに、甲高い音が鳴る。
細かくなった水滴は、さらに弾かれ
無数の音が鳴り、コードを響かせ、リズムを刻み
そして僕は、涙を流す。


この美しい神の恩寵は
殺人者だけが知り、互いに語り合うこともない
隠された秘密なのだろう。
悪と美が結びついてはならないという
人間の理性が隠蔽した
大いなる奇跡なのだろう。


水滴が涙を導いたのか
そもそもあの水滴は僕の涙なのか
悲しかったから涙が出たのか
涙が出たから悲しみを感じたのか
どちらにしても、目から零れたものは、宙に吸い込まれ
脳のサウンドトラックを上書いていく。