物語/印象主義という革命

全く整理のされていない、メモ書きのようなものになるけれど
この予感は、いまどこかに書き記して
考えた証を残しておかないといけないという、強い義務感がある。
やがて、作品という形で表現すべき内容だが
まずは、ここに、レポートのような形で提示してみたい。



茂木健一郎氏の『脳と仮想』を読んだ。
端的に言うと、脳が受けとる刺激(クオリア)の中には
数字で表現できるものと、そうではないものがある
ということから議論が始まっていた。


たとえば、ラーメンから受け取る刺激は
その分子配列の情報だけではなく
ラーメンという言葉の持つ記憶から
ラーメンのにおいを嗅いだときに浮かんでくる感情
ラーメンにまつわる思い出など、様々にある、ということだ。

そして、数字で表すことのできる情報であれ、そうでない情報であれ
その全ては、脳の情報としては区別されない『仮想』である
と議論は続く。


目の前にあるコップと、幻覚で見たコップは
脳に与えられた情報としては、全く区別されるものではない。
片方を幻覚だと判断し、他方を本物だと判断する
その判断基準には
五感のいくつかが、矛盾しない情報をはじき出しているとか
前後の状況から、ここにグラスがあることは不自然じゃないとか
そういった、いろいろなものがある。
ただし、それを判断しているのが、脳であることに変わりはない。


現実に存在する、ということは究極的には判断のしようがなく
現実に存在するとする、という判断を脳が下しているに過ぎない。



この本に書かれていた内容は、僕の予感を刺激した。
『物語が崩れ去ってしまう予感』を、である。


この予感が強くなってきたのは、ハウルの動く城を見てからである。
この作品は、数字で示すことのできる情報と、そうでない情報が
全て同じフィールドで語られてしまっている。


宮崎作品のこの傾向は、千と千尋の神隠しから見られた。
あの作品は、完全一人称という制限つきではあったが
数字とそれ以外の情報を、うまく混ぜ込んで
そのうえエンターテイメントとしてまとめあげられていた。


ハウルの動く城では、わずかに三人称へと寄った一人称で
さらに物語の構成が崩されている。
数字で示せる現実と、仮想とが、すべて目の前に現れ
そのなかで物語が進行していく。さほど無理なく、進行していく。


この手法がスタンダードになるのではないかという予感が
僕の中に、ずっとあったのだ。
宮崎作品を見ながら、胸の奥に感じ取っていたのだ。
なぜならこの物語は、僕にとって見知った
村上春樹』や『舞城王太郎』の手法に、とても近かったからだ。



村上春樹は、最近になって
あちら側とこちら側を明確に区切ることをやめた。
それは海辺のカフカで顕著になり
アフターダークでは、完全に一体化してしまっている。
舞城王太郎は、はじめからここを目指している。
田口賢司古川日出男、上げつづければきりがないほどに
仮想上での物語は、スタンダード化しているのだ。
僕はあまり読まないので分からないけれど、外国文学だって
もしかしたらこういう状況になっているのかもしれない。


その手法が、エンターテイメントの王様とも言える
ジブリまでやってきた。
これがどれだけ恐ろしいことなのか
我々は気づくべきなのだ。



かつてアイデンティティという言葉が
一般的ではない時代があった。
この言葉が浸透していくと同時に、物語においても
登場人物たちは、明確な形のないアイデンティティを探しはじめた。
(そしてエヴァンゲリオンが生まれた)


仮想という概念が、まだ一般的ではない現代だが
いまや、徐々に浸透しはじめている。
『潜在意識』『サブリミナル』といった言葉が、世の中にあふれはじめ
人々は、確実に興味を示している。
(そして物語が崩壊する)



そして物語が崩壊する。
仮想の概念は、アイデンティティの革命ほどに易しくない。
数字で表現できる世界のみで構築されていた、今までの物語は
数字以外のものを、数字の組み合わせで伝えるべく
様々な趣向を凝らしていた。
しかし、数字以外の仮想が、物語に入り込むことで
つじつまを合わせる必要がなくなってしまうのだ。
必要なのは、つじつまではなく、気分が繋がるかどうか、である。


目の前に突然扉が現れて、それが都合良く過去に繋がっていて
少年に話しかけるより前に、元の時代へと引き戻されてしまう。


都合が良すぎるし、つじつまだって合ってない。
何故? と言いはじめたらきりがない
ハウルの動く城におけるこの場面は
それでも、物語の要として、十分に役割を果たしている。


これからは、技巧で物語を作ってはいけない時代なのだ。
技巧で物語を作っている人たちは、みんな取り残されてしまう。
深く潜ることを怖がらない人だけが、作品を作れる時代になる。



自分の深層にある、(数字も含めた)仮想を
どうやってさまようか、だ。
自分の心に、どういった傷をつけ
癒しの過程で、何を作り上げていくか、だ。



これは、かつて音楽や絵画の世界で起きた
印象主義のはじまりに、よく似ている。
絵のことはよくわからないけれど、音楽で言うならば
村上春樹ドビュッシーのような役回りで
日本の文学印象主義を牽引しているに違いない。


ジブリは、バレエ・リュスだろう。
最先端が最大のエンターテイメントなのだから
毒の蔓延は速いはずだ。


僕は、ひそかに感じている。
ゲド戦記は、鈴木敏夫さんの仕掛けた『足踏み』なのだ。
時代の歩みを先んじてしまったジブリは、一度足踏みをして
世間がついてきた今、さらに強力な毒を盛りつける。


次のジブリ作品は、おそらく
物語のあり方を180度、変えてしまうに違いない。
残された時間は、あまりに少ないのだ。