残るもの消えるもの

電車で隣の席に座っていた女性が電子辞書を取り出した。
いま思うと、僕のヘッドフォンから漏れていた爆音のスカは
相当にうるさかったかもしれない。


女性はそれまで、本を読んでいたわけでもなく
ケータイを繰っていたわけでもなく
ただぼんやりと、車内を眺めていた。
(おそらく、考え事だけを、していた)


彼女は、表示を和英辞書に切り替え
『画材』と入力した。
親切設計な文字レイアウトのおかげで
大きく表示されたその文字を読み取るには
さほど苦労しなかった、が
後に羅列された結果の英単語群は
認識することができなかった。


たあいのない思考の合間に
挟まれたであろうその行為を
彼女は今、憶えていないだろう。
思考の中身すら、やがて消えてしまうあいまいな記憶に違いない。
そして、最終的には、『画材』を意味する英単語のみが、知識として残る。


一方、僕の記憶の中には
『画材』を検索した女性の行為が残る。
整理のつかない、若干の不気味さとともに。


そしてその記憶は、僕の中で新たな何かに変わり
こうやって他人の意識を間借りした思考はつづく。
だから今の僕を形成する大部分は
不気味の集合体であって
社会には、そんなカオスが渦巻いている。


それは誘導可能ではないか。
操作可能ではないか。
そんな妄想を頭の中で繰り広げながら
iPodに続く毒を、撒き散らしてみたいと考えている。