秋葉原無差別殺人によせて

みんな殺人事件のことを語る。
語ることで整理し
ときに問題はすり替えられ
そして忘れられていく。
これは理解不能な「感情」を排除する
社会の自浄作用だ。


しかし、それで良いのか。
一般論や、安易な引用で
事件を片付けてしまって良いのか。
君は、自分の頭で考えなければならない。
そして、本質を感じとらねばならない。


ポール・オースターリヴァイアサンを思い出し
ガス・ヴァン・サントのエレファントを思い出した。
小説は確かなイデオロギーを装って書かれ、読者に中立を要求するものだし
映画は中立を装って撮られ、見た人に思考を要求するものだ。
これは、映画が状況を描きつつも、思考を描けないという欠陥を持ち
小説は思考を描くことができるかわりに、状況の描写に欠陥を持つという
それぞれの特徴によるものだと思う。


ただ、ここで重要になってくるのが
それぞれに、それぞれの立場を装っているということだ。
映画では、完全に中立なはずのカメラが、監督によってコントロールされている。
小説は、思考を描きながらも、状況を用意し
筆者は、その状況における読み手の思考を
強く意識しながら筆を進める。


両者とも、あえて不完全な方法を選びながら
何かを描こうと必死にもがく。
このもがきこそ、人間的であり
小説が、映画が、存在する意味なのではないか。


そして人は、もがき苦しみ生きるものだ。
優れた創作物は、私たちに
いかにもがき、いかに苦しむべきかを教えてくれる。


秋葉原の事件のあと、予想したとおり
ゲームやアニメの悪影響が語られている。
これらの意見に、全面的に賛成するわけではないが
ある種の物語が、現実に悪影響を与えている可能性は、否定できないと思う。


思考を描きつつ
メタ的な意味でも思考を押しつけようとする小説であり
状況を描きつつ
メタ的な意味でも状況を伝えようとする映画
その中の一部に、まずいものが存在する。
そういった作品は、描かれたものが
そのままの意味でしか伝わらないからだ。


もちろん、その手法で良質なエンターテイメントを作り上げる人もいる。
トランスフォーマーはかっこよかったし
乾くるみには心地よくだまされた。
しかしひとたび、描く対象が変われば
この直接的手法は、性を性として
暴力を暴力として
愛を愛として、伝えてしまう。


そこには、もがきがない。


繰り返す。
人はもがき苦しみ生きるものだ。
君は、苦しみを受け入れなければならなかった。
君は暗やみの中から、一筋の光を探しあてねばならなかった。
答えを見つけねばならなかった。
かつて見た、安易なイメージからの引用でなく
君の頭で導きだした、本当の答えを。


考えろ。
そして、感じるんだ。


思考を放棄した瞬間
君の前に
ひとつの可能性が浮かび上がるだろう。
それは、底のしれない暗やみへと通じる道だ。